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カテゴリ:日々考えたこと
リンク先の幸せなふくらはぎみたいなoppaiさんのブログに触発されて。oppaiさん、「客観と理論」という現象学的な素晴らしいブログを書いていらした。全面的に、うん、うんと大きくうなずき肯定しながら読んでいた。その中で、反発しつつも惹かれた一言。
>自分の考えは >明らかに他者の存在によって構築されているのだから、 >他人の否定はありえない。 確かにそうです。だけれど、そこまで結論づけてしまっては 「私にも枠があり、あなたにも枠がある。お互いリスペストしましょうね。だって私たちは『みんな違ってみんな良い』」 by相田みつを 的な博愛主義的?な、落としどころが決まった、オブラートに包んだ意見交換になるんじゃないかな最後はここに終結しますから」という地点が決まっている約束の下で、考えの相違を探り当てていく過程は(まあ、ぶつけ合う必要もないのだけれど)、なんだか生ぬるい気がする。そもそも、ディベートは混沌の中に行なわれるものであると思っているから。ただし、oppaiさんはこの言葉をあくまで現象学的な意味合いでおっしゃっているのであれば、私の勘違いなので前もってお詫びしておきます。 oppaiさんは最後の一行で「他者の否定」と明記しているので、ここでほっと安心する。「他者の意見の否定」とはいっていらっしゃらない。 時に思うこと。生活していくうえでの「みんな違ってみんな良い」は「みな、個性をもっているんですよ」と好意的に受け入れられる。ただし、別のフィールドでその言葉を用いたときには「私たちはみなひとつです」と同意語くらいに曖昧で、他の意見が入る余地が無いくらいに頑なで、傲慢になってしまう危険も孕んでいる。 ディベートが行なえるほどに熟成した(と思える)お相手とは、お互いが井の中の蛙である前提で意見交換行なわれていると勘違いしているのは私だけなのかもしれない。 私としては、謙虚であることと、遠慮なく意見を述べることは全く別の次元のものであるのだけれど・・・・。まあ、偉大なるメルロポンティは、最初に反論の対象となる相手を褒め上げてから意見の相違を述べるという紳士的な方法を取っていたらしいので、それを参考にノーブルなやり方を真似てみるのもいいかもしれない。 「他者の存在によって構築されている」つまり私たちは、他者との比較において自分を確認するのであれば、相違を探すことがすなわち自己を確立する行為なんだよね。 oppaiさんのブログを借りつつ、ずいぶん本題からズレてしまいましたが、今日はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.19 08:32:11
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