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カテゴリ:巣鴨から30分以内の散歩
随分前ですが、本郷菊坂の樋口一葉の井戸の写真を紹介いたしました。 本日は、樋口一葉終演の地の碑をご紹介いたします。 今日は朝から雨でしたが、ちょっと出かけてみました。一葉終焉の地のご紹介をします。 都営地下鉄6号線の白山駅を白山下出口から白山通りに出て、水道橋に向かって徒歩5分くらい、紳士服コナカのお店の横にその碑があります。 本郷丸山福山町は今の白山1丁目あたりです。裏通りや脇の路地にはいると、一葉が済んでいた頃の面影が残る町並みがあります。 当時は銘酒屋が軒を並べ、そこで働く女性は今で言う風俗の仕事をしていました。一葉は彼女たちと仲良くなり、そこで彼女たちの恋文の代筆をしてあげたりしていました。その地で死ぬまでの1年あまり、「おおつごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」などの名作を書き上げました。 彼女はその地で24歳の若さで亡くなりました。質素な葬儀であったそうです。野辺の送りに森鴎外が軍馬にまたがり儀礼服の軍服で参加したいといいましたが、妹のたってのお断りでかないませんでした。 美人薄命伝説、天才の夭逝伝説を身をもって証明した人でもありました。 女流と言う言葉は今はジェンダーから言っても使ってはなりませんが、女流を越える天才作家でした。 また一葉の生涯の恋人として名高い半井桃水のお墓のあるお寺も紹介いたします。 一葉は本郷3丁目交差点辺りで幼少時を過ごしました。父親は同心株を買って士族になるました。明治になると、警察に潜り込み、所謂下級官僚になりましたので、結構豊かに暮らしていたようです。父親の死、跡を継いだ長兄の速すぎる死によって女子ながら戸籍筆頭の当主となり、家計を支えることになったのです。そのとき一葉(本名夏子)は17歳でした。 生活のために小説を書こうと決意した一葉は半井桃水に師事することのなりました。桃水は当時31歳で色白の美男といってもよく、一葉はすっかり彼の虜になってしまいました。 桃水も生活のために小説を書こうという一葉に、もっと売れるように書くようにと一生懸命指導してくれていたようです。 しかし弟子の一葉の方が有名で、半井は一葉の恋人として名を残すことになったのは、嬉しいでしょうか。天国で苦笑いしているでしょうか。 実は樋口一葉が5000円札の顔になったことから、彼も注目されています。半井桃水の故郷、長崎県対馬市厳原町中村の生家跡にまちづくりコミュニティー支援交流館「半井桃水(なからいとうすい)館」がオープンしているそうです。 私は家業の取引先の会社に行くたびに半井桃水のお墓のあるお寺(文京区本駒込 1-20-17 養昌寺)の前を通っていました。 ずっと気になってはいたのですが、今日はそのお寺に行ってみました。 半井桃水(なからいとうすい(1860~1926)。朝日新聞の小説記者。朝日新聞に多くの通俗小説を掲載した。代表作に『胡沙〔こさ〕吹く風』『天狗廻状〔てんぐかいじよう〕』があります。(読んでいません。) おお、素晴らしいことを知りました。東京朝日新聞在職中、釜山に駐在し、海外特派員第1号でもある。ということです。『胡沙〔こさ〕吹く風』は朝鮮が題材になっているとのこと。 読もうという気持ちがまだ出ません。明治時代の通俗小説ってどんな感じなのでしょう。桃水は一葉の書いた物をよんで、もっと読者に受けるよう俗っぽくとアドバイスしていたようです。一葉は上級学校には行けませんでしたが、小石川(東京都文京区春日)の中島歌子の歌塾「萩の舎」へ入門し、歌人としても才能を現していました。 桃水への恋慕の情は残しながら、一葉の小説は通俗を受け入れられず、今で言う純文学へと変わっていきました。文語調の文体はふと、紫式部を思い出します。 私個人の気持ちでいえば、日本の誇る文学作家で女性は紫式部と樋口一葉です。 あ、明治時代までのことです。最近の作家はもしかしたらよく知らない、読んでいないのかもしれません。 女流とこだわらないなら、紫式部、樋口一葉、夏目漱石、あれ本当に古い作家ばかり・・、そうそう三島由紀夫も素晴らしい。 推理小説なら、松本清張、夏木静子、宮部みゆきかな・・。 時代小説は山本周五郎、マイブームで一押しは藤沢修平です。 と話は関係ない方に進んでいきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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