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カテゴリ:読書感想
私:この本は昨年末、発刊とともに読んだが、岸田秀氏が最近の日本での欧米の一神教的なものと、日本の多神教的なものとの関連に危機感を持ち出していたこと(2006.05.28の日記参照)、養老孟司氏の「無思想の発見」でいう日本の無思想の自覚の重要性を指摘していることと、この本で武士道や情緒の重要性を指摘していることなどに見られる日本の良さの自覚の重要性はつながっている底流を感じたね(2006.05.31の日記参照)。
面白いのは、「ハイ・コンセプト」(2006.04.26、04.30、05.12、05.16の日記参照)でアメリカもこれからは、人への思いやりとか論理を超えた右脳社会になろうと予測した本が出たことだ。 訳者の大前研一氏は、情報化社会を予測したトフラーの第三の波に対して、第四の波の予告だと言っているくらいだ。 そうであれば、日本はまさに、最先端の先進国となるのではないの。 A氏:そして、実は、その日本の良い点を失っていくのが明治維新であり、太平洋戦争での敗戦だ。これが「ねじれ」「裏切り」として加藤典洋氏が「日本の無思想」、「敗戦後論」で述べている通りだ。 私:例えば、明治維新で、伊藤博文は明治政府を近代国家の政府として作るのだが、日本の伝統的な天皇制が、男系であることを知らず、皇室典範をつくろうとしたらしい。これをある人から注意され、男系に修正したと言う。伊藤博文はそのような知識がなかったらしい。 A氏:どうして、良かれ悪しかれ、自国の伝統を明確に把握し、これを維持する努力をしないのかね? 私:要するに、日本には外敵にもまれ、自分たちのアイデンティティを明確にして強調する伝統的な歴史体験がなかったのかもね。自然に無自覚的にできてしまったからだろうか。 ある意味、「無思想の思想」というのは矛盾かもね。思想というのはいろいろたたかれて、体系的に自覚されるものなのかもしれない。今になってやっとグローバル化でもまれている最中かもしれない。 「荘子」にムカデの話がある。ムカデが歩いていたら、これを見たある人が「すばらしい。よくこれだけの足を乱れず動かして歩けるものだ。」とほめた。ムカデは驚いた。そしてそれを意識した瞬間、足が乱れだすという話だ。 A氏:幕末と敗戦でその無自覚思想がはじめて、技術力という左脳の論理からの戦いを挑まれたことになる。多くの良いものを失いだす。 そして、最近になって、何か知らないが社会がギスギスしておかしくなってきたようだと気がつく。 足が乱れだしたのかね。失った大きなものに気がついたのだろうか。 私:戦後の技術優先思考もそうだね。俺の大卒初任給は1万3千円だったが、文科系は千円安かった。技術系を優遇した。そういう国民的なコンセンサスがあったようだ。 A氏:外国と思想的に摩擦を感じるのは、政治家、学者、文化人など特殊な層だったのが、1970年くらいから、東南アジアに多くの企業が進出して、通常のサラリーマンが外国の人と接するようになった。摩擦を感じ、とまどったのではないの? 私:その通りだね。最初、シンガポールに多くの日本企業が進出した。同じアジア人だから、顔が同じだが、考えが全く違う。会社への忠誠心はない。大学を出るといきなり現場経験がなくても課長だ。オフィスに入ってしまう。現場主義の日本と異なる。自己主張が強い。 マレーシャ、タイ、インドネシア、ベトナム、韓国、中国と企業は展開するが、つくづく、日本人社会の考え方は特殊だなと感ずるね。それが崩れだしているのかもね。 A氏:誰かの講演で聞いたが、平安京は唐の長安を徹底的にまねたものだが、長安と比較すると、全く異なる点が2つあるという。 一つは、長安は外敵に備えて立派な城壁に囲まれている。しかし、平安京は人がまたぐと越えられるような盛り土があるだけ。 もう1つは周辺の風景である。長安の都を囲むものは荒野である。しかし、平安京を囲むものは緑豊かな山野だ。 この2点は、両国の文化の違いとなる原点だ。 遣隋使や遣唐使を多く出し、長い間、中国に多くを学び、真似をしながら、この2点に中国文化と日本文化の基本的な違いが、象徴的にあらわれているようだね。 私:愛国心とは、国土、郷土を愛する心だというが、それに伴って長い間、生まれ育てた文化も愛するべきかもね。 日本人の肉体的な体質も長い間にできてきた。食文化だ。それが今、飽食で成人病問題になっている。逆にアメリカのほうが日本食の良さを取り入れている。子供の食育も問題になっている。 守るべき文化とは何かが今、問われているのかもね。それを「国家の品格」は問いただしていると思うね。 そんな文化など俺たちは関係ないよと言っている人も、とんでもないパンチを社会的に、個人的に受けることになるのかもしれないね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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