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カテゴリ:歴史
昭和天皇・マッカーサー会見 私:天皇・マッカーサー第1回会見の通訳の奥村勝蔵氏の「手記」は1975年11月号の「文藝春秋」で作家児島襄氏によって公表される。 児島氏は「手記」の入手先を明らかにしていない。 この「手記」には「全責任を負う」とか天皇が「自分を処刑してもらいたい」いう発言はない。 A氏:何故、そのような「手記」が1975年のタイミングで出たのかね。 私:著者は、外務省の意図的なリークではないかという。 A氏:60年近くなっているのに、だんだん、いろいろな記録が出てくるね。 私:さらに、1945年の9月25日の「ニューヨーク・タイムズ」のクルックホーン特派員の質問に対する天皇の回答の正式文書の控えが、2006年7月に宮内省で見つかった。 A氏:東条は天皇の言うことに対して忠実な「忠臣」で、天皇も信頼していたのではなかったのかね。 私:著者は、昭和天皇の「東条非難」は、皇室を守り抜く天皇の徹底したリアリズムの表現であったとみているわけだね。 A氏:2006年7月に「富田メモ」が出るね。 私:そこへ、翌2007年に、元侍従・卜部亮吉の日記が公刊される。 A氏:昭和天皇は、サンフランシスコの講和条約を絶賛し、リッジウエイにそのメッセージを託した。 私:敗戦で危機に瀕した世一系の天皇制を守る義務が昭和天皇にはあった。 明日は、その憲法改正問題に話しを移そう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.29 21:53:44
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