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Ryu-chan6708

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2008.10.28
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カテゴリ:歴史
                
昭和天皇・マッカーサー会見

天皇・マッカーサー第1回会見通訳の奥村勝蔵氏の「手記」は1975年11月号の「文藝春秋」で作家児島襄氏によって公表される。
  児島氏は「手記」の入手先を明らかにしていない。
   この「手記」には「全責任を負う」とか天皇が「自分を処刑してもらいたい」いう発言はない。

A氏:何故、そのような「手記」が1975年のタイミングで出たのかね。

私:著者は、外務省の意図的なリークではないかという。
   というのは、「手記」の発表と天皇・皇后の訪米とが時期的に一致しているからだ。
  そうなると「手記」自体も「脚色」、「削除」があるのではないかと疑う余地がある。
   実は、昭和天皇1946年1月29日に、英国王にあてた「親書」で「東条」にふれているという。
   2002年10月に外務省が重い腰をあげ、昭和天皇・マッカーサー第1回会見記録を公開する。
   しかし、内容的には、先の「文藝春秋」で作家児島襄氏によって公表されたものとほぼ同じで、「東条発言」の記録はない。

A氏:60年近くなっているのに、だんだん、いろいろな記録が出てくるね。

:さらに、1945年の9月25日の「ニューヨーク・タイムズ」のクルックホーン特派員の質問に対する天皇の回答の正式文書の控えが、2006年7月に宮内省で見つかった。
  
この中で、「東条発言」を裏付けるような内容があったという。
  これによって、著者は、奥田「手記」に「東条発言」がないのは、削除されたとみなすことになるとしている。

A氏:東条は天皇の言うことに対して忠実な「忠臣」で、天皇も信頼していたのではなかったのかね。

:著者は、昭和天皇の「東条非難」は、皇室を守り抜く天皇の徹底したリアリズムの表現であったとみているわけだね。

   2002年8月には、昭和天皇・マッカーサー会見の第8回から、リッジウエイが去るまで通訳をした松井明氏のメモである「松井文書」を「朝日新聞」が入手して、紙上で特集掲載され、ベールがはがれた。
  「東条非難」という面からみると、「松井文書」では、マッカーサーとの最後の会見となる11回会見の内容が明らかになっているが、そこで天皇は東京裁判に対して「謝意」を表明している。

A氏2006年7月に「富田メモ」が出るね。
  A級戦犯靖国神社に合祀されて以来、昭和天皇は靖国参拝をやめる。
  
この理由をめぐって、議論が生まれ、メモの「捏造」、「歪曲」説も出たね。

:そこへ、翌2007年に、元侍従・卜部亮吉の日記が公刊される。
  ここに「直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」とあった。
   この新資料で、御厨貴氏や半藤一利氏らが、長年議論されてきた天皇の靖国不参拝の理由が証明されたとしているね。

A氏昭和天皇は、サンフランシスコの講和条約を絶賛し、リッジウエイにそのメッセージを託した。
  これで、敗戦直後からの天皇戦犯訴追の危機を「全ての責任を東条にしょっかぶせるがよい」という基本路線にそって、天皇制を守ったことになるね。

私:敗戦で危機に瀕した世一系の天皇制を守る義務が昭和天皇にはあった。
  天皇制を守るためには、天皇を戦争責任者として裁こうとする東京裁判と、後、2つ解決すべき問題があった。

  1つは、憲法改正だね。
   連合国のなかには天皇制廃止論が強くあった。
  
   もう1つは、アメリカの占領終了後の日本防衛をどうするかだね。
   天皇は共産主義勢力の侵略を恐れた。
   共産主義は当然、天皇制廃止だからね。

  明日は、その憲法改正問題に話しを移そう。






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Last updated  2008.10.29 21:53:44
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