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私:國分功一郎氏は、この欄で哲学者ハンナ・アレントの思想を紹介することを決めていて、それは今、我々はアレントの思想に学ばねばならないという強い確信があったからであるという。
20世紀初頭にドイツに生まれた彼女は保守派の思想家であり、もちろんその保守主義は今日日本で耳にする「保守」とは何の関係もなく、それは政治の成立に必要とされてきた諸条件、すなわち様々な政治制度や価値の共有を重視する立場を意味する。
かつて國分氏はアレントの保守主義に反発を覚えていたが、それが単なる伝統主義と結びつく可能性が気になっていたからだが、アレントが論じた政治の諸条件が今まさに崩れつつあるというのがこの5年間の國分氏の感覚だったという。
少なからぬ人が同じことを感じているように思われるが、それ故であろうか、現代日本を批評してしばしば「民主主義の危機」が語られる。
A氏:國分氏は、この言い方に違和感があり、そこでは民主主義というすばらしい政治体制が何か別のものに脅かされていると考えられているという。
しかし、そもそもデモクラシー(民主主義)という言葉は、古代ギリシアで、「あんなものは民衆(デーモス)の支配(クラチア)にすぎない」という罵倒語として作り出されたものだ。
この政治体制には見逃せない内在的欠陥が確かに存在する。
民主主義の最も重要な原則の一つが「平等」であり、これは人類が勝ち取った誇るべき原則であり、誰もが「平等」に尊重されねばならないという価値観もここから導き出される。
私:だが、民主主義における「平等」にはもう一つ別の側面があり、「平等」に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面である。
アレントは古代ギリシアの民主政を参照しながら「平等」と「同等」を区別し、後者の重要性を強調。
民主主義は民衆に、政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと「同等」の存在になろうとすることを求めるから、民主主義社会では、教育による人物の涵養や報道による情報提供などの必要性を誰も否定しない。
民主主義は「同等」の観念によって、「平等」の原則が単に形式的に実現されるのを退けようとし、言い換えれば、「同等」の観念が失われたとき、民主主義は自らに内在する欠陥を露呈する。
「同等」の観念の完全な実現は考えられなく、現実には、能力や環境の違いによって民衆の間には様々な差が存在するだろう。
したがって、それを強制することがあってはならない。
A氏:だが國分氏は、「同等」の観念が無条件に課されねばならない一群が存在すると考え、それは政治家であるという。
全員が「同等」の実現に邁進はできないからこそ、自らの言葉と考えを鍛え上げることができた者の一部が代表として政治に直接参画することになっている。
ところが現実は全くそうなっていないどころか、言葉も考えも全く鍛え上げられていない人物が政治家になっているという。
國分氏は、最近、ある国会議員が性的指向における少数者について「生産性がない」と述べて問題になったが、内容については論じないが、この人物が同等の観念から最も遠いところにいることは誰の目にも明らかであるという。
確かにそのような人物にも政治家になる権利が「平等」に与えられているが、これこそ、「同等」の観念が理解されずに「平等」の原則が形式的に実現されていることの帰結でなくてなんであろうかという。
どうすれば「同等」の観念を実現できるだろうかと問う時、國分氏は、アレントのそれと似た保守主義の中でものを考えざるを得ないのであるという。
私:政治家が失言して、後で、謝罪したり、訂正したり、追加の説明をしたりするのは、「同等」に反する政治家だということになるね。
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Last updated
2018.10.10 17:49:00
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