手作りの益子焼がとどきました
先般、職員旅行で栃木県の益子町に行ってきたんですが。
http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201502100000/
その時に、陶芸教室で作った益子焼の作品が、
こんかい職場の方に送られてきました。
これが、その作品です。
当方は、なかなかの傑作だと思っているんですが、
そう思うのは、一人だけで、
我が家のもう一人は「なんだ、このグロテスクなものは」と、くそみそです。
職員旅行は、栃木県益子町へバスで行ったんですが、
いつも感じるんですが、
日本の田園風景というのは、広い水田が広がり、
しっかりした農家の一戸一戸のたたずまいは、素晴らしかったですね。
群馬に行っても、茨木に行っても、いつも出かけるたびに、
どこに行っても、いつも、いつも、感じさせられるところなんです。
日本の農家は素晴らしいと。
というのは、私にはこの景色は珍しいんです。
当方の田舎は神奈川県の真鶴町岩なんですが。
幕末に建てられた「石工先祖碑」に、その岩村の様子がえがかれてますが、
「天の物を生ずるや必ず其の人を待ちて世に顕るなり。
相の巌邑(いわむら、岩村)は嶮岸東南の海に沿い峻岳西北の函関(カンカン 箱根山の関所)に連なり樹林縫うが如し。ガン石間を為し一項の田無し。しかれども百有余戸飢渇を知らず。・・・」
岩村は、箱根山が相模湾にそそいだところて、碑文のとおり、平地の畑がほとんど無いんですね。
「一項の田無し。しかれども百有余戸飢渇を知らず。」と。今も昔も変わらない訳ですが。
一体昔の人たちは、ここでどうやって暮らしていたのか、想わざるを得ないんですね。
当方のひおじいさんですが、
慶応元年に山梨県境川村で生まれて、明治30年ころこの地に来て、落ち着いたらしいんです。
ここでごく狭い、わずかな畑を耕すことで暮らしていたというんですね。
明治30年ころから昭和17年に亡くなるまで。
まぁ、岩村の百余戸の人たちの状況は、みな同じようだったとはおもいますが、
それにしても、よくも生活できたものだと思います。
私などは、井の中の蛙で、あちこちの地域に行くたびに、広い水田風景を見るたびに、
裏腹な情景として岩村の昔を想像せざるを得ないんですね。
今回も、そうだったんですが。
手作りのこの陶器をみても、そこにある歴史の流れに、乾杯です。
平和・民主でつくりだした成果は、当たり前ですが、すばらしい。
逆に、これを逆流させようとする政治家は、断固としてNOです。
きっと、これから、きっぱりとした地の声・意思が示されていくと思いますね。
いっせい地方選挙も、その一歩になると思いますよ。