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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
マルクス「ヘーゲル弁証法批判」17
知人が前回の発信に対し感想を寄せてくれました。 それはそうですが、なんでそんなことが、今ここで大きな問題になるのか?との問題が問題なんです。 「素朴実在論」ということがあります。古今東西の認識は、カントやヘーゲルが問題にするまでは、外界の世界とひとの意識とは一致していた。意識は外界そのものをとらえているとの普通人の常識です。 でわなんなのか?そこが問題です。 ヘーゲルによれば、世界というのは人間の意識が対象としてつくりだしたもの、人がつくりだした世界というのは、自己の本質的意識とは違った、疎外されたものであり、個人の意識からしたらそれは疎遠な形である。理解しえないような、不本意な、巨大でなじみえないようなものとしてある。人はそのような形で世界をとらえている、ないしその姿をつくりだしている。それは個人にとっては、まぁたとえて言えば、私一人の力で車や時計をつくれといったようなものです。しかし人は歴史的な社会的力をもって、たしかにまわりの世界をつくりだしているとおもいます。 ヘーゲルもマルクスも言っています。 ヘーゲルは『精神現象学』で、その「序論」でもかさねて、実体というのは主体だと強調しています。 「真なるものを実体としてではなく、同時に主体として把促し、表現することである」 対象という実体は、人がつくりだしたものであり、それは取り戻せる、疎外された状態にあるのを回復することができる、 と強調しているわけです。そのことは、人間がつくりだしたものは、疎外された形にあるわけですが、それはその疎外された形を回復していく運動でもあると。 そのことは、疎外された今日の人間社会ですが、一般的、抽象的にみて、そこにも「いって、こい」「つくりだし、それを変えるとの弁証法がはたらいているわけで。そうした関係を解きほごして、疎外を克服することで、対象性をとりもどすことが出来る、そんな一般的な洞察が、ここにはあるというんです。 それはあくまで一般的なレベルでのことですが、私などはそのように理解しています。
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「幕間での一つの整理」は、唯物論と唯心論(今回の場合はむしろ観念論といった方が正しいかもしれませんが)の関係=対抗への新たな問題提起をしてくれているような気がします。(私の理解していたところより、より複雑かなと。)
加えて、所謂「疎外」とその克服という、優れて一般的な表現で表されている意味内容も吟味の内に含めなければならないのかな。とも感じます。 (2024年04月27日 14時24分11秒)
渡政(わたまさ)さんへ
その通りで唯心論とは観念論のことなんですが。 問題は「唯物論対観念論」の対立とは、単純にとらえてないんですね。 というのは、唯物論にも色々あるわけで、問題はそれまでの唯物論の特徴をとらえつつ、弁証法を生かす唯物論というものをどうつくるかが問題なわけです。 「唯物論か、観念論か」との視点だけでは、カントやヘーゲルの観念論の成果が、とらえられなくなる。 しかし、かつての哲学解説書は「唯物論対観念論」で、唯物論は正しく、観念論は誤りだ、との鬼の首でも取ったかのように、単純化されたものが流布されていたように思います。 レーニンだって『唯物論と経験批判論』で、慎重に唯物論の形態を明らかにした上で、弁証法的唯物論をあきらかにし、それを擁護をしているわけですから。なおかつ、その後、『哲学ノート』に確認できるように、弁証法について、さらにヘーゲルの弁証法を吟味しているわけです。 「唯物論対観念論」との対立との単純化された認識というのは、その使われ方によっては、場合によっては、危険なことになりますね。そう思います。 (2024年04月27日 15時47分44秒) |