横浜・シルク博物館を見学
義母の東京生活は、残するところあと一週間となりました。
7月20日は、すこし遠出して、横浜のシルク博物館を見学してきました。
かつては、日本中の農家が養蚕をしていたんですね。
群馬県のその中心の一つで、冨岡の製糸工場があってくらいですから。
義母も養蚕の経験者だったんですね。
このシルク博物館では、展示されている蚕は、生きたままでした。
普通の人は、驚いて身を引くのですが、義母にかかると愛されるお蚕様です。
「これを春子、秋子、晩秋、晩晩と、年に4回もとったんだよ」
「コメ作りがある中で、たいへんだったけど、貴重な現金収入だった」
「蚕が大きくなると、人が寝るところがなくなるくらいだった」と、
義母がその具体的な体験談が自然にでてきました。
すると、「そうなんですか」とシルク会館の案内係りの方が感心して聞いていました。
このシルク博物館には、ここ横浜港に全国から生糸が集められてきて、
ここの港から海外に輸出されたこと。
日本や世界で、生糸からどのような服装がつくられていたか、
その衣装が、具体的に展示されていました。
群馬の各地からも、冨岡の製糸工場で生糸がつくられ、
各地でつくられた生糸が、八王子などをつうじて、横浜港に集められてきたこと。
関東の地図で、その絹の道が示されていました。
義母の養蚕体験は具体的です。
農家は養蚕で繭をとりだし、出荷してました。
しかし、その先がどうなるかは、必ずしも確かではなかったようです。
そこでのこのシルク博物館でしたから、強力な関心が呼び起こされたようです。
「ここから輸出されたの・・、するとここは海の近くなのか」
「ここが横浜か」「『ブルーライト横浜』の横浜か」
それで、シルク博物館を出てから、山下公園でしょうか、海岸通りを歩いてみました。
背後にあるのは氷川丸です。
「横浜の波止場から、船に乗って・・・♪」
次々に義母は歌が出てきました。
炎天下でしたが、横浜港を見てきました。
この後、横浜中華街で食事して、帰ってきました。
しかしこれらは、義母の記憶からは、たちまちにして消えてしまってます。
しかし、記念に撮った写真が残ってますから、
後でも、この横浜初体験が、少しでも記憶につながってくれるとよいのですが。
あと一週間の、義母の東京生活です。