おどろきでした、昔の石垣山の写真
11月19日に、箱根板橋に出かけたんですが、
近くに松永記念館があることを紹介されて、訪ねてみました。
それがどのような記念館なのか、私などは知らなかったんですが。
しかしそこで、驚くべき一枚の写真をみつけました。
この写真の景色ですが、どこか見覚えがあったんです。
私などは、今、早川の物産をあずかつて多摩の団地に提供しているんですが。
その預かり先の農家の景観と、写真とがどことなく似ているんです。
もちろんこの写真は戦前のものですして、そのままではないんですが。
その後、車が通れるよう農道もつくられ、畑に人の手が加わっていますから、
そのままではないんですが、しかし、似ているんですね。
こんど、行った時に農家の方に聞いてみたいと思っています。
それと、もう一つむかしの人について感じた点があります。
私などが子供のころ、お爺さんやおばあさんを見ていた時に、
その風貌からして、生活様式からして、人としてへだたりを感じていたんですが。
なにか敷居の高さの様なものを感じていたんですが。
今、自分がその歳になってみて、少し違っていたんじゃないかと思うようになりました。
確かに風貌は、背中も曲がり、白髪もふえ、はしわもの顔に変わっていたんですが。
しかし、気持ちとしては、それほど以前と変わってはいなかったんじゃないかと。
自分が歳をとってみて、何となく感じていることなんですが。
かつてみた相手の歳に自分がなってみて感じるようになったんですが。
それほど、抱いていた違いはなかったんじゃないかと。
若かりし頃も、それから歳をとってからも、たいして変わってなかったんじゃないかと。
残念ながら、おじさんやおばあさん、父や母については、それは確かめれません。
それらの人たちは、みなあの世に行っちゃってますから。
しかし過去の記憶というのは強情なものです。
目を閉じれば、すぐに小さいころに見た姿が浮かんでくるんですね。
遠くかすかなものでしかなく、材料は乏しいんですが、懐かしく浮かんでくるんですね。
実際には、その間には長い幾年月の生活経験があるわけですから、
人となりに変化がくわわっていることも、これはこれで確かなことなんですが。
たしかに、時代社会は、人をそれぞれの生活方向に押し立てていくわけですから、
それぞれ生活の形も風貌も、人を変えていくこと、これも確かなわけですが。
しかし、変化と違いばかりではないように感じています。
亡くなってしまった人たちについては、確かめることは出来ないんですが。
それは、しょうがないですね。
だいたい人は自分自身の姿は見れない訳で、
相手の人の風貌の変化は分かるんですが、自分については自覚が無いんですね。
他人については、変化がまず第一に目に飛び込んでくるんですが。
だけど、最近感じるんですが、その変化の基礎には、どこか同じような原理が働いている。
変化している面だけじゃなくて、人の気立てとか、心持ちなどのどこかに、
歳月をへだてても変わらないものがあるような、そんな気がしてくるんですね。
それを最近感じるんですが、これっておもしろいものですね。
もしかして、世代の違いというのは、
原始の人ですらも、ある角度からすると、共通性があるのではと。
それは、人間として共通な時空を超えた営みとして、人生観を解く鍵かもしれません。
ようするに、変わりゆくものの、強力な懐かしさなんですが。
これは貴重なものですね。