マルクス『ヘーゲル法哲学批判』7「思弁」について
今回は番外です。
ヘーゲル哲学でぶつかっている「思弁」とはなにか。
今回は、この問題についてです。
一、前回、ヘーゲル『法の哲学』の第272節を紹介しました。
この文章をすんなりと読み取れる人は、誰もいないと思うんですが。
「『憲法(体制)が理性的であるのは、国家が自分の活動状態を概念の本性にしたがって自分のうちで区別をして規定しているかぎりにおいてのことである。それにまたその国家は、これらの権力それぞれが、それ自体のうちで総体性であるように、権力それぞれが自分のもの以外の諸契機を自分のうちで活動を保ち続けるようにさせる必要がある』(福田静夫訳)。
ヘーゲルが言おうとしていることが分かりますか?」
として、紹介した文章ですが。
こうしたヘーゲルの文体(文章の表現)ですが、そりはヘーゲルのあまたある著作に関して、その全体にすべてにたって共通する特徴じゃないかと思います。
これが、当時の社会にあって、各界の全体わたり『すばらしい、重要だ』と一世を風靡したそうなんですが。
それがわかりますか、それを理解出来ますか?
その問題です。
私などは、名にしおうヘーゲルを開いて、チンプンカンプンだったんですから。
苦しまぎれの解釈の仕方として、思弁哲学とは意味の分かりにくい、理解しにくい分かりにくい表現であって、そうした表現の仕方が「思弁的な表現」なんだと、これまでずーっと思って(解釈)きたんです。
しかし、2022年3月から、名古屋の日本福祉大学名誉教授の福田静夫先生の「ヘーゲル法哲学」講座を受講しています。その中で、福田先生から感想文を送ったところ、こんなアドバイスがありました。
『「思弁」に「思弁」を重ねましたね。
Spekulation(思弁)というのは、思いめぐらすという意味ですよ。・・・マルクスがヘーゲルの「法の哲学」が当時の国家論を越えた国際水準であると承認していることを、その「思弁」という言葉の動的弁証法てきな含意を承知の上で言っていることに注目しない様ような読みではだめですよ』、と。
そのアドバイスですが、これは、それを私なりに理解したことなんですが。
この「思弁哲学」ということの意味を理解すること。
そのことというのは、大きな問題なんだということがつたわってきました。
もちろん、問題が解決し、納得したわけではないんですが。
それは探るべき大きな問題なんだということが、ここで問題提起されました。
二、そもそも「思弁」ということについてですが、
森宏一編『哲学辞典』(青木書店)ですが。そこでは次のように解説されてます。
「経験にたよらず思考だけで認識をえようとすること。
アリストテレスは実践に対立させて、理論そのものへの沈潜によって、観想との態度によって真理を直観しようとする意味に用いられている。
ヘーゲルでは思考作用の悟性がいまだ抽象性にあるのにたいして、対立を統一においてとらえる思考を思弁と呼んでいる。」
ここには、「思弁」ということは、哲学の大きな歴史に根差している問題であって、簡単ににわか問答で片付くような問題ではないこということでした。
だいたい、日本の歴史でみれば、禅宗の問答ですが、壁に向かっての公案問答している問題ですが、「ああかもしれない、こうかもしれない」といった公案するところの態度にも関連している問題とみてとれます。思いをいろいろとめぐらすということですが。
もしもそれが妥当するとすれば、
洋の東西でぶつかっていた問題において、重なりがあるということ。
ヘーゲルの1820年代の提起は、東洋の日本においても、似たような問題が、形態を変えて鎌倉時代にあった。そのもとはさらに古く、中国、インドにあったということです。
あくまで、推定ですが。
三、マルクスは、ヘーゲルの思弁の表現について分析してるんですね。
わたしのように、「わけのわからない表現」といったあいまいなことに捨て置かなかったんですね。
ヘーゲルの「思弁」の文章は、ああでもあり、こうでもあると、いろいろと思いを巡らせて、それらを一つの文節の中に「統一」的に関係させるようにしてるんですね。そのことが何とも、私などには理解しがたい表現になっているわけです。
私などが思うのには、
そこには、一つは、ヘーゲルが理念(精神)の本質が、様々な形の現象形態として現れるとする問題があります。現実は確固とした出発点ではなくて、他にある本質(概念)の一つのあらわれであって、様々な現れの一つの形態にすぎないというんです。確固とした出発点的な現実は、単なる仮象・現れ方の一つに過ぎないというんです。この問題です。
もう一つの問題は、現実は本質的概念のあらわれだとすると、現象形態につて、ああでもあり、こうでもあるとのとの、いろいろと思いめぐらしている問題があります。
この次々に膨らむいくつもの思いめぐらしですが、それが一つの文節の中に表現している。これがヘーゲルの特有の難解な文章表現の原因になっている、と。
このヘーゲルの難文ですが、マルクスは次のように指摘しています。
P18 第269節を紹介するの冒頭ですが、
「たびたび繰り返されるやつで、神秘主義の一産物であるところのヘーゲルの一種独特の文体に注意していただきたい」と。
マルクスは、ヘーゲルのひとつづきの、ながいながい文章ですが、それを複数の文節に分けるようにして、その主張の内容を明確にしていきます。
このヘーゲルのごちゃごちゃした表現ですが、思いが次々にふくらんでいるのを、それを整理して、普通に理解できるように文節を分けるようにしているんです。
この方法をマルクスは、第279節(国民文庫 P38)で、紹介していました。
ようするに、ここには、誰しも難解とされるヘーゲルの文章ですが、
それを読み解くための一つの方法が、解決策があって、
その実例が、ここでマルクスによって、いくつも展開されているということなんですね。
四、私などは、これまでヘーゲルのグダグダした文章ですが、これはいったい何を言っているのか、なぞだったんですが。ましてや、それを批判するマルクスの主張は、推測する域を出なかったんですが。
2022年3月から名古屋の日本福祉大学名誉教授の福田静夫先生(91歳)の「ヘーゲル『法の哲学』講座」を聞く機会を得たんですね。
丹念にヘーゲルを読み解いていく福田先生の学習の仕方をもってすれば、これまで疑問だらけのヘーゲルの主張でしたが。それが、マルクスが言っているように、形式には問題があっても、その中身には素晴らしい事柄の関連に対する洞察が含まれていること。すばらしく博学で天才的な努力家なんだということが、しかも今日的な意義をもっていることが、見えてきています。
さらにそれを、分析して、批判的に評価しているマルクスの努力も、これもまた見えてきます。
ただ、残念ながら、そうした成果が、今日において共有されている様には思えないんですね。
でも、マルクス『ヘーゲル法哲学批判』の訳者・真下信一氏がいっています。
「ひとりの研究者にとって、これほどまでに分化し、それぞれに深くかつ内容ゆたかになった学問の各分野に、多少とも百科全書的に通じるなどということは、アリストテレスやトマス・アクィナスや、さてはヘーゲルほどの天才をもってしても、今日ではとうてい望みえないところである。しかしだからといって、ここの研究者なり学生なりが自らの専攻する狭い学問範囲にとじこもってじ余の広い学問領域のことに無関心でいてよいということにはならないし、さらには自らの研究やその成果をいろいろな仕方で密接にかかわるところの社会生活の諸分野のことに目を閉じることは許されないであろう。」(『時代と共に生きる思想』真下信一著 新日本新書 1971年刊行)
今回は、ヘーゲルの「思弁」とは何かという、この点での補足としての学習でした。
次回は、第275節「a.君主権」に入ります。