|
テーマ:こけし探訪(85)
カテゴリ:遠刈田系
恋い焦がれていた小林輝子2(湯田の小林定雄一家) 小林輝子は「こけし時代」12号(2015年8月15日)に登場している。 そのときも「工人の妻」としての紹介で、輝子のこけしは1本も掲載されていない。工人輝子はすでに、この時点で休止していたのだろう。「こけし時代」の写真を掲載させていただくが、これも2015年当時のものではないようだ。2015年ならすでに81才であるが写真は40代のように思える。定雄がこけし工人になったのも、下記のように婦唱夫随であった。 【小林輝子】本名は光子(てるこ)。昭和9年5月1日、小林光一の長女として茨城県で生れる。小学校4年まで東京の北千住で育った。戦争激化による疎開のため昭和19年に父の故郷である岩手県和賀郡湯田町に移った。祖父は湯田町で木地工場を開設した小林辻右衛門で、光一はその長男である。昭和31年同町の神成三五郎長男定雄と結婚、定雄は婿となって小林姓になった。小林輝子は湯本の温泉街で土産物店を経営していてこけしも売っていたが「うちのこけしがない」と、店に並べるこけしの製作を夫定雄に勧めた。夫の定雄は昭和41年11月より遠刈田の佐藤丑蔵・佐藤文男の通い弟子となって、木地を学び、こけしの製作も始めた。光子も夫の木地業を手伝い、夫のこけし描彩から見取りで、自らの木地や定雄の木地に描彩を行うようになった。俳句もよくし『木地師妻』『人形笛』などの句集もある。また、絵本作家でもある。〈こけし時代・12〉には「絵本の中の工人の暮らし」という短文もあり、絵本作家になった経緯も紹介されている。(KokeshiWiki一部補正追加)
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年09月15日 11時02分27秒
コメント(0) | コメントを書く
[遠刈田系] カテゴリの最新記事
|