|
カテゴリ:顕正会
タイトルが幹部会と間違えて記載してました。
本来は、近畿大会が正しい表記です。 過去の分も修正しました。 【人を根底からお救い下さる】 では、人を根底からお救い下さるとはどういうことか。 それは、成仏という永遠に崩れぬ幸福を得させて下さることです。 おカネがあっても、地位があっても、権力を得ても、そんな幸福はすぐに崩れてしまう。隣りの国の朴槿恵(パククネ)大統領は、あっというまに追いつめられてしまった。 世間の幸福などはまことにはかないですよ。 崩れぬ幸福、それが成仏の境界であります。 根底から救うて、またまた、適当な事を言い出しましたね。 根底から救えるのなら、罪障があろうが謗法があろうが、問題がないと言うことでしょ。 その人が成り立ってる根本全てから救うのですから、なにをしていても問題がないのではないかな? 「成仏という永遠に崩れぬ幸福を」と言うが、第一に成仏とは何か確りした定義を示してない。 あやふやのままでしょ。 永遠に崩れぬ幸福にしても、幸福の定義が曖昧。 幸福て築くものでも、貰うものでもない。 ただ、気がつくものでしかない。 それも、主観によりところが大きいし、また、対比する物があってはじめて、幸福とか言ってるわけですよね。 その対比するものがなければ幸福と言う概念すら存在しない。 永遠に崩れないものなどない。 法は普遍だけど、それ以外は普遍ではない。 永遠に崩れぬ幸福と言うのであれば、日蓮上人は、なんで、下痢で苦しいと言う身に生まれたの? 幸福ではないではないか。 久遠元初の仏が再誕してすら、幸福ではないのだから永遠に崩れぬ幸福などないと言う実証を示してるよね。 で、境界だからどこか知らない場所でもあるのかな? 境涯と境界の明確な区別を知りたいね。 【現当二世の大利益】 仏法は現世だけでなく、臨終から来世に至るまでお救い下さる。これを「現当二世の大利益」というのです。「現」とは現世、「当」とは当来世、死後の未来世です。仏法はこの現当二世にわたってお救い下さるから、根底の救いだというのです。 大聖人様はまさしく現当二世救済のために「本門戒壇の大御本尊」を顕わされ、全人類に授与して下さったのです。 もしこの御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、いかなる人も必ず一生のうちに成仏させて頂ける。 成仏して救われた。 しかし、来世でも救って貰うてこと? 成仏したのなら救いは要らないでしょ。 仏になってるのだから。 で、地涌の菩薩は、衆生救済を誓って何度も生まれ変わる。 それが誓願であったはず。 しかし、顕正会の言う地涌の菩薩は、自分達がさっさと成仏してしまう。 これって、菩薩ではないでしょ。 だから顕正会は偽菩薩の集団。 でも、菩薩ですらないけどね。 淺井昭衛を見ればわかるでしょ。 宗門が学会がと人のせいばかりで愚癡愚癡いう。 解散処分がと愚癡愚癡言う。 菩薩はそんなことは言いません。 それにどんな愚癡愚癡いっても過去は変わりません。変えられません。 それよりも、今この時を見て進むのが仏道です。 未来を追い求めるもの違います。 未来は、今この時でめまぐるしく変化します。 来たら来たように受け止めて、今この時を生きて修業をする。 もちろん、題目をたくさん唱えても、うるさいて言われるだけだからね。w 【一生成仏は釈迦仏法にはない】 「一生成仏」というのは、釈迦仏法においては絶対にあり得ない大利益です。 人間の寿命はわずか数十年、その短い一生の間に成仏が遂げられるということは、釈迦仏法にはないのです。 釈迦仏法では、生死を幾たびも繰り返し、長い間、仏道修行をして、始めて仏に成ることができた。これを「歴劫修行」という。これが釈尊の熟脱仏法では当り前の修行だったのです。 大乗仏教を元にしたお話しと言えばいいのかな。 熟脱仏法て言うけど、釈尊が成仏したのは、南妙法蓮華経の題目を唱えていたからて日蓮上人が言ってなかったかな? 諸仏の成仏は、南妙法蓮華経とかね。 そうなると、歴劫修行をしたのも、南妙法蓮華経だった。 釈尊の本意は、法華経の文底に秘沈された南妙法蓮華経だった。 全部、日蓮上人が言ってるよね。 なら、題目ですら一生成仏の教えではないでしょ。 一番馬鹿なのが淺井昭衛かな。 自分達は大聖人の本眷属の地涌の菩薩と言う。 地涌の菩薩は釈尊の眷属という矛盾ね。 それがなくて、日蓮の本眷属でもいいけど、それって上行菩薩の時の眷属て事でしょ。 正法時代には出てきてる。居たと言うこと。 末法は二度目の生まれ変わりなのかな? そうなると、最低でも1回は修業してるわけでしょ。 修業しないで、地涌の菩薩にはなれないからね。 他にも熟脱の仏法ていうけど、下種したのは誰。 久遠元初の仏ではないの? 釈尊が下種してるわけではないでしょ。 本生覃とかシッタカ物語を元にしたお話しで色々言うから、矛盾が出てくるんですよね。 【信心ロ唱だけで成仏】 ところが、日蓮大聖人の下種仏法の修行は、極めてシンプルです。 大聖人様が顕わして下さったこの御本尊を信じ、恋慕渇仰して大聖人様の御名を南無妙法蓮華経と唱え奉るだけでよい。 この信心を退転なく行ずるならば、いかなる人も、必ず一生のうちに成仏を遂げさせて頂ける。これが一生成仏です。何とも有難い大聖人様の仏法であります。 必ずとかいうけど、嘘言ってるね。 前提条件があるでしょ。 顕正会の狂った信仰を貫き通して、折伏の名の勧誘をする。 広布供養という、在家が取り次ぎも受け取りもできない供養をしないとダメ。 まして、題目だけ唱えていればいいのなら、久遠元初に湧いて出てきたときから、人間に対して教えていれば、広宣流布のまま時代が流れていたのではないかな? 広宣流布になれば、安泰なんでしょ。 久遠元初に日蓮一人が南妙法蓮華経と唱えて、その後に生まれた生物、人間に題目を教えた。 下種した。でも、信心してないから広宣流布が来なかった。 広宣流布が出来ないまま、鎌倉時代に再誕して、広宣流布だとか叫いていたんでしょ。 【竜の口の巨難を経て大御本尊を顕わさる】 いいですか。 戒壇の大御本尊様は、あの竜の口の大難を経られ、佐渡の流罪を経られたのちに顕わされているのです。 決して立宗早々に、研究室の中で顕わされたものではない。実に身命も惜しまずの御修行の結果、久遠元初の自受用身の大境界を証得され、そののちに顕わされているのです。 そのことを少し説明します。 佐渡に流される前に楊子本尊と言うものを作ってる。 でも研究の成果でしょ。 証得しているものなら、なんで、本尊の相貌が変化するの。 研究して迷ってる証でしょ。 それに戒壇の板きれを作ったあとも、本尊の相貌は変わっているものを書いている。 究極の本尊を現していながら、それより劣る本尊を書く必然性がない。 こんな程度の日蓮信仰など無知でしか信じない。 ダマされない。 自分自身、無知だったと反省ですね。 にほんブログ村 「自灯明・法灯明」 「願わくはこの功徳を以って普く一切に及ぼし、 我らと衆生とともに仏道を成ぜんことを」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年02月09日 21時07分24秒
コメント(0) | コメントを書く
[顕正会] カテゴリの最新記事
|