【狂言師とアフォーダンス】【楷書の芸と草書の芸】
狂言師というのはつまり、ここで言うと「野村萬斎さん」のこと。
萬「私どもの世界では、"四十五十はハナタレ小僧"と言われます。私も不惑となてやっと、ハナタレ小僧になれたかな、というところなんですが(笑)」
萬「能狂言での「構エ」というものを師匠から、「こう」と習って我々はその通りにコピーしようとするんですね。でも、それぞれ身体の大きさ、太さ、腕や足というパーツの比率6:4だったり7:3だったりと違っているので、例え分度器で角度を測って師匠のコピーをしても同じようにはなれない。」
萬「師匠の通りにコピーしても、名人ともなる年齢になると(身体的な衰えもあって)同じような構エにはならないんですね。俺が習ったのと違うじゃねぇか!(笑)と思いますがそれでも名人は名人」
萬「子どもは基本を忠実に習い、"楷書の芸"を身につけていくのに対し、大人になってくると、型を脱して自分のものにしていくのが"草書の芸"」
3人で能狂言の基本ともなる「構エ」の姿勢を取ってみました。
師匠から習うときは、お手本のコピーをしようとしますよね。
それでも、こうして背の高さも、太さもそれぞれバラバラな人間が同じような肘、膝の角度を作ってみても同じにはならない。
佐「萬斎さん、質問していい?これってさ、2時間だったら2時間練習してみると、そのうち、"コレだっ"という一瞬どこかで体得するようなところがあるんですかね」
萬「まぁ、そうですねぇ」
佐「チョット聞いていいですか」←矢継ぎ早(笑)
「萬斎さんの構エはどこに重点を置いているんですか。どの順番から意識していくのの?」
萬「重点は腰ですかねぇ。一番最初に足は地(床)を掴み、膝を曲げ、腰を引き、上半身はやや前傾となって・・」
佐「それらしくなってきた?」
萬「ああ、さっきよりよくなってきましたね」
熱心に熱心に佐々木先生は狂言の構エについて、体得しようと、それはもう双雲さんと観客置いてけぼり(笑)
このやり取りを観ていて、なんとなく分りづらかった「アフォーダンスの一角・・・いや0.1%」が見えた、ような。
「構エの体得」はつまり「カブトムシが起き上がるために必要な"縁"を見つける行為」と同じなんだ。
いや、そんな簡単なくくりで発言してはいけないのでしょうが、アフォーダンスについてどう繋げたらしっくり行くだろうと考えると、私にはココしか出口がありませんでした(苦笑)
反発もあるかもしれませんが、コレは佐々木先生が仰ったのではなく、ましては萬斎さんが仰ったのではなく単なる私の「想像の世界」なので悪しからずご容赦下さい。
佐々木先生は、自ら「カブトムシ」となって観客に見せた、とも言えるのかしら。
こんな理論は言葉で説明しても、わからないから(苦笑)
能狂言をおそらく一度でも観たり勉強したり興味を持ったりしている観客層には、狂言の「構エ」を持って説明するが一番有効かもしれない。
話が前後してしまいますが、後で萬斎さんが舞台の上で舞(サシコミ、ヒラキ~・・・・・ガッシ・・・と型の連続)を披露
(双雲さんは大きな筆を持って舞台上で筆脈を見せます)
佐々木先生が「萬斎さん、目を瞑ってやってみてください」
萬「え??!!」「薄目じゃだめですか」←動揺する萬斎さん(笑)
佐「だめ。」
ここで、「怖えぇぇぇ~~」と言いながら(笑)目を瞑って舞を披露されたんですが、舞台を回る型においても、見えないので、佐々木先生曰く「足が畏れている」(舞台から落ちる恐怖があるから無理もない)
佐「萬斎にしてこれか(笑)」←褒めているのかどうなのか(苦笑)( ̄▽ ̄:)
いや捉えかたですからね、親しみを込めて仰っていらしたのだと思います。
これは、単なるお遊びなのではなくて、佐々木先生が考えたいわば実験なのかもしれない。
「カブトムシ=萬斎さん(?)」←畏れ多いです(爆)
でも自らの身を持って、分析するというコンセプトの解体新書なのですから、いいのでしょうね。
普段は当然、目を開けて舞う。
視界の制約があるにしても、せいぜい面(おもて)をかける程度で、全く目を瞑ってしまうということはない。
これがいわゆる無理矢理強いられた"環境" "制約" "自然"。
萬斎さんは、目を瞑って何度か同じ形状の舞台でお稽古をしたら、目を開けているのと同じように"舞うこと"をできる瞬間を体得することがあるかもしれない。
いや、萬斎さんなら、やり遂げちゃうでしょうね。←負けず嫌いっぽいし(想像)
佐々木先生が多くまで語られなかったのが残念で、萬斎さんは目を瞑ってパフォーマンスしただけ(あ~おもろかった)の話で終結しちゃった感がありますが、実は上記の「与えられた過酷な環境に対し、最初は手探りの模索状態であっても、いつかその環境に順応する瞬間が訪れる」ということなのでしょうか。
そう、最初に説明のあった、「生の受動」←ココに戻るとまたややこしくなる
単にそれは「稽古の成果」または「努力の証し」としか考えたことはないけれど・・・
環境に合わせて、「突き動かされている」ということがアフォーダンス(?)←確信がもてないので「?」で(苦笑)
狂言の芸を楷書と草書で表現してくれました。
「四十五十はハナタレ小僧」
そして、楷書から草書の芸へ移り変わっていく萬斎さんの年代は、アフォーダンスが始まった、とも言えるのでしょうか。
(まだよく理解できてないけれど・・誰か良い線行ってるとでも言ってくれれば救われるのですが・苦笑)
人間の身体は老いる。
当然、狂言師の身体も歳を取れば老いて動きづらくなる。
それもまた与えられた自然、環境ならば、またその現在の「四肢の状態」で芸もまた変えられていく、ってことなんでしょうね。
・・・って、やっぱりややこしい。
狂言師の芸やら一生をアフォーダンスに置き換えて理解する、ということが「私が能狂言を楽しむ」上で必要かどうかは果たしてワカラナイ(苦笑)
でも、こうして「アフォー」という小難しい学問と繋げて一緒に考えられる時間もまた有意義だったように思うのです。
・・・って、ココでまとめちゃった感じがしますが(笑)
特に、今回は書かずにいると忘れてしまいそうな「アフォーダンス」について先に覚え書きしてみました。
で、続く・・・(多分)
肝心な『書』のことも触れておかなきゃ、って思いつつ、あんまり憶えていないんですね、これが。
「永字八方(えいじはっぽう)」って聞いたことがある。
けれど、何かってよーくわからない。
今回の解体新書ではこの「永字八方」についても説明があって、「書」の中での「筆脈(ひつみゃく)」のお話もありました。
でも、上手く説明できません(爆)
メモもとってないので・・・これは、DVDが発売されたらもっかい勉強しよ(笑)
まずは狂言をベースに「アフォーダンス」を紐解いてみました・・・
「動くと忘れちゃう」ため、記憶の新しい解体新書からレポってみました・・・
というか・・・万作さんの狂言芸話・・・さらに記憶がなくなってきました。
パーティも(涙)
なお「アフォーダンス」については、私あめみこの勝手な理解で書いておりますゆえ、実際の「アフォー」とは全く異なっていると思います。。。いや、自信ない( ̄▽ ̄:)
もっとこの生態心理学というものに造詣が深かったりする人が読めば
「ぶぁかがっ!」と思うかもしれません(→ω←)
・・・んが、しかし、まるっきり自己中心レポなので、そこのところは、どうぞご理解ください。
あとがきにすら・・
自分でも何言ってるのかワケわからん・・(汗)
ま、それはさておき・・・
※明日の7/24午後9時~「陰陽師2」放送だぁぁ(≧∀≦)
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