「八月の路上に捨てる」(伊藤たかみ)を読んだ日。新芥川賞作品であることはどうでもいいのだが。どうでもよくないのは・・・。
2日の早朝。 仕事が朝早くからだから、寝ないと いけないのだけど。 とりあえず、ブログ。 書きます。 言っておかなければいけないことが 一つ。 久しぶりに、小説に着手しようかな、と。 だから、これまで以上に、ここに書く回数 は減ると思う。まあ、小説や映画を読んだり、 見たりした時は出来るだけ書き込みますが。 今日。 伊藤たかみさんの「八月の路上に捨てる」を 読んだ。たまたま買ってた文学界の6月号に 掲載されていて。 新芥川賞作品でなければ、読んでないだろうなあ。 僕の読書なんてそんなもの。特に最近は。 表現をみにつける、とか言う視点で考えると お先真っ暗の読書量なんだけど。 さてどうかなあ、と。 正直に言いいます。 面白かった。ほんまに。 よく考えなくても、読めば分かるが、たった 一日の出来事を描いただけなのに。 時間の出し入れが本当に自然なんだよなあ。 そこにそのシーンがなければいけない、って 感じである。 そんな技術的なことよりも。 やはり、人だよなあ。 人。 生きてる人。 何箇所か、気に入ったフレーズというか、身につまされる、 というか、そうだよなあ、というか、僕自身の経験とは全く 関係ないものも含めていいなあ、って文章、セリフがあって。 しかも、ほとんどが男女関係に関するものだったりするんだけど。 “でもまあ、あたしも同じだったか。まったく、離婚のとき って自分が自分じゃなくなるよね。何やってるのかよくわ からなくなるし” “こう言うとおかしく聞こえるかもしれないが、そうだった。 関係はこれまでになく最悪な状態になっているのに、トラック に乗っていても、脚本を書いているときも、眠りに落ちるまでの 間にも、彼女のことを考えるようになった” “そんな生やさしいもんじゃないよ。本気って、違う。その 人を好きとか嫌いとかもわからなくなる。ものすごく怒って るかもしれなくてさ、相手の心までずたずたにしてやりたく なって。” “そうだよなあ。好きなところと嫌いなところを数えて、嫌い が上回っちゃうようになったら、それ以上は駄目だよなあ” 当たり前といえば、当たり前か。 離婚経験のある女と、これから離婚する男が 一緒に居ての、一日の話なんだから。 離れたや引っ付いたの話が多いのは。 でも、どれも結婚してる、してないは別にして 男女の仲として考えて、見に覚え、に近い感覚 が多くって。参考に、じゃなくて。ああ、これも あったなあ、という感覚。男と女の引っ付き方と 離れ方って、やはりどこか普遍的な部分って きっとあるんだろうなあ、と。 そうなんだよ。 オレも真剣に、まじめに、本気で、 いつもやってるんだけどねえ。 “何もかも本気だったのだ。” が、本当に良く分かる気がして。 30代のああだ、こうだ、話に ああ、似たようなもんだよなあ、と思って しまう45歳のオレ。 いや、そんな比較より、伊藤さんの この、主人公や周辺の女性の息遣いさえ、 聞こえてきそうな、ほんとうに目の前5センチ ぐらいしか離れていない感じの身近に 思えてしまう小説。 うまい、とか良く書けてる、とか いう距離を置いた書き方を僕がしちゃあ、いけない。 評論家じゃないし、第一、この小説を評論する ほど立派な生活してないし。 そんなもんは、書斎にこもって文豪の研究でも してる人に任せておいて。 オレ、小説書けるだろうか? なんてことは考えず、考える前に、 文字が出てこないと話にはならん やろなあ。 “”内は、すべて、この伊藤たかみさんの 「八月の路上に捨てる」から引用させていただきました。 すんません。ありがとう。 (下)掲載誌の写真も考えたが、なぜかやめた。 同じワンパターンなら、こっちでもいいかな、と。 家のベランダからの風景。遠目の、ぼけてる、大型船 らしきものに、なぜか惹かれた。正体は分からず。 ぼーっとしてる、どうでもいい風景に立ち止まる ことが確かに増えたと思う。