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2011.11.29
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カテゴリ:韓国・北朝鮮
暴かれる韓国最大のタブー「保導連盟事件」 報道特集
http://www.tbs.co.jp/houtoku/onair/20080906_1_1.html

 約60年前、韓国で政府が国民を大虐殺した事件をご存知だろうか。「犠牲者は20万人以上だった」とも言われている。それほど大規模な虐殺だったにもかかわらず、韓国内では長い間、タブーとされてきたため、詳しく知っている人はほとんどいない。この「韓国最大のタブーが今、ようやく暴かれようとしている。


■ なぜ?山中に謎の遺骨

 韓国南部、サンチョン郡。車道から山道を10分ほど登ったところにその現場はあった。土の中から姿を見せたのは、おびただしい数の人骨だ。これまでに発掘されたのは約240体。ほとんどが大人の男性の骨だ。

○調査責任者 ノ・ヨンソク博士 全部発掘してみなければわかりませんが、証言によると500人以上の遺体が、ここに埋められたということです。

 遺体が埋められたのは今から57年前の1951年2月頃と見られる。彼らの身に何が起きたのか。


■ 暴かれる大量虐殺

 韓国政府は2005年、朝鮮戦争の前後に国内で起きた虐殺事件の調査を始めた。

 政府の「真実和解委員会」は、そうした歴史的な事件の真相究明などを行うための機関だ。2007年からは各地の虐殺現場で遺骨の発掘作業を始めた。

 1950年6月に始まった朝鮮戦争で、北朝鮮の侵攻に韓国の首都ソウルはわずか3日で陥落、韓国軍は一時、南へと追い詰められた。

 韓国政府が恐れたのは北朝鮮軍の攻撃だけではなかった。韓国内にも北朝鮮を支持し、共産主義活動を行う人たちが存在していた。

 国内からの反乱を恐れた韓国政府は共産主義に関わった疑いのある人たちを処刑することにした。「アカ狩り」である。

 
 各地の処刑現場からは、韓国軍が使っていた銃弾や薬きょうが大量に見つかっている。

 このサンチョン郡の遺骨も、いわゆる「アカ狩り」の犠牲者のものである可能性が高い。

 真実和解委員会の調査によって約60年の間、闇に閉ざされていた数々の虐殺事件に、ようやく光が当てられようとしている。


■ 虐殺現場からの生還者

 韓国・スンチョン市出身のキリスト教牧師ファン・ジョングォンさん(70)は虐殺現場から生還した数少ない一人だ。

○ファン・ジョングォンさん インタビュー
 ここが私の家でした。あそこに門がありますが、当時はこっちにも出入り口があってそこから連行されたんです。そして、当時はこちらの向かい側にも家があったんですが、その家族は4人が殺されました。

 自宅から連行された後の惨劇をファンさんは今もはっきりと覚えている。


■ 子どもまで皆殺しに

 惨劇が起きたのは、ファン・ジョングォンさんが10歳のときのことだった。

 夕食の支度をしていると、銃を構えた軍人がいきなり家にやってきた。一家は理由もわからないまま、近くにある中学校まで連行された。

 ファンさんによると、連行された住民は約30人。幼い子どももいた。そして「停まれ!」という軍人の声が聞こえた直後…
○ファン・ジョングォンさん インタ ビュー
「ここにひざまづいた状態で、全員が壁のほうに向かって一列に並ばされました。そして『銃殺!』という号令で殺されたのです。」

 ファンさんは足を撃たれたが、命は助かった。しかし、両親を含む家族、親戚の5人を失った。2歳の甥までが射殺された。

○ファン・ジョングォンさん
生き残ったのは私だけです。あの時兵隊の視界に入った人、目に映った人はみんな殺されました。


■ 「アカ」を転向させる団体

 「アカ」のレッテルを貼られ全国各地で虐殺された人たちの中には、ある団体に加入していた人が多かった。

 それは「国民保導連盟」という団体だった。朝鮮戦争が始まる前、1949年に韓国政府が作った組織だ。

 韓国内にいる共産主義者たちの思想を転向させ、大韓民国への絶対的な支持を誓わせようというのが設立の趣旨だった。

○(加入者の反省文より)
「よく考えもせずに左翼系列に加わってしまったことを今では後悔しています。今後は共産軍と闘争し、大韓民国に忠誠をつくすべく献身努力いたします。」

 当時の新聞記事には、共産主義活動に関わった人が自首して保導連盟に加入すれば過去は一切問われない、と書かれている。また、加入者には就職の斡旋や食料の配給といった見返りがあった。農地をタダでもらった人もいた。

 しかし、北朝鮮軍が38度線を超え朝鮮戦争が始まると、韓国政府は突然態度を変える。

 「過去の罪は問わない」と言っていたはずが、保導連盟員を「反乱分子」「スパイ」とみなし、軍や警察を使って各地で一斉に処刑し始めたのだ。


■ 廃坑で3,500人を処刑
 韓国・キョンサン市。日本の植民地時代に掘られたコバルト鉱山の廃坑だ。中に入ると、急に肌寒くなった。

 入り口から150メートルほど進んだ場所で遺骨の発掘が行われている。この鉱山で保導連盟員を含む多くの民間人が虐殺されたという。

 真実和解委員会から作業を委託された地元の学生たちだ。小さな遺骨や遺品を見逃さないよう、慎重に掘り続ける。

○ヨンナム大学大学院 ソン・ジャンゴンさん(27)
 「隠された歴史を明らかにしたい、そんな気持ちをもって発掘作業を行っています。」

 坑道の入り口の脇に、発掘された遺骨頭に銃弾の跡がはっきりと残る遺骨。刃物で切りつけられたような傷が残るものもある。犠牲者を縛っていたと見られる電線も見つかったが保管されている。

 この山で何が起きたのか。真実和解委員会の調査責任者、ノ・ヨンソク博士の案内で山を登った。

 山の中腹に、目撃者の証言によって明らかになった重要な現場があるという。それは、深いタテ穴だった。

○調査責任者 ノ・ヨンソク博士
「ここは被害者を8人ずつ縛って銃殺、もしくは突き落として生き埋めにした場所です。」

 これはもともと地下の坑道で掘ったコバルトを外に運搬するために掘られた穴だ。

 当時の目撃者によると、銃殺された犠牲者たちはこのタテ穴に次々と落とされた。その結果、大量の遺体が坑道の中にたまった。

 この鉱山での犠牲者は3,500人に上ると見られている。

 学生たちに混じって発掘作業を手伝う男性、イ・テジュンさん(70)はこのコバルト鉱山の事件で、従兄弟の男性を失った。従兄弟は共産主義が何なのかすら、わかっていなかったという。

○イ・テジュンさん インタビュー
「従兄弟はイデオロギーとは全く関係のない人でした。毎日、山奥に薪(たき ぎ)を取りに行って暮らしていただけなのです。」


■ 虐殺は韓国全土で起きた

 保導連盟員の虐殺は韓国全土で起きた。これは民間団体の調査よる犠牲者の数だ。調べによると、殺された人たちの中にはスパイ活動はおろか政治運動と全く関係のない人たちが多かった。

 保導連盟事件による犠牲者は、合わせて20万人以上とも言われている。


■ 何も言えなかった時代

 しかし、これほどの虐殺だったにもかかわらず、事件について知る人は少ない。

 保導連盟事件は、1980年代まで続いた軍事政権下でタブーとされた。遺族や生存者たちも、この事件について話すことは許されなかったという。

○イ・テジュンさん インタビュー
「コバルト鉱山で人がたくさん殺されても、当時は何も言えませんでした。言えば連行されてしまう。聞いてもいけないし、見てもいけない。何も言えない時代だったのです。」

 「何も言えない時代」。それをうかがわせる資料が韓国各地の警察署に保管されていた。

 朝鮮戦争が休戦となった後も、保導連盟事件の遺族が「要注意人物」として監視されていたことが記されている。歴代の軍事政権は、事件が表面化しないよう取り締まってきたのだ。

○真実和解委員会 キム・ドンチュン常任委員インタビュー
「これまでの軍事政権は、民間人の虐殺が問題になれば自分たちにとって深刻な脅威になると考え、事件が表沙汰にならないよう弾圧してきたのです。」


■ 「アカの子ども」と言われて

 2008年7月、虐殺事件の遺族と真実和解委員会のメンバーが、ある現場へと向かった。朝鮮半島の南にある、観光地として有名な珍島(チンド)からさらに南へと進む。

 地元の人たちが「カモメ島」と呼ぶ無人島が見えてきた。ここに推定で500人の遺体が眠っているという。

 オ・ウォンロクさん(68)の父親は1950年7月頃、保導連盟員だという理由で警察署に連行された後、殺されたという。

 父親の遺骨は、今もこの島に放置されているものと見られる。

○遺族 オ・ウォンロクさん
「遺骨探しも大事じですが、父が無実の罪で、無念の思いで銃殺されたという真実を明らかにして欲しいのです。父がここで亡くなったために、私はアカ(共産主義者)の子どもだと言われ、悔しい思いで生きてきましたから。」

 島への上陸を目指したが、波が荒いため接岸するのが難しい。上陸を断念した。


■ 私が射殺しました

 韓国人が韓国人を虐殺する…。左翼勢力の反乱を恐れたとは言え、同じ国民に銃口を向けた兵士や警官たちはどんな思いだったのか。

 我々は加害者の証言を求めて、探し回った。しかし、すでに亡くなった人や取材を拒否する人もいて、なかなか話を聞くことができない。

 そうした中、保導連盟員を殺したという男性と8月1日、チョンジュ市でようやく接触することができた。

 朝鮮戦争が始まった直後だった1950年6月から7月。憲兵隊の少尉だったキム・ マンシクさん(81)は、韓国北部のウォンジュやフェンソンで、保導連盟員およそ150人の射殺を指揮した。

○元憲兵隊少尉 キム・マンシクさんインタビュー
「私たちは、警察から引き渡された保導連盟員を射殺しました。北朝鮮軍が迫って来ていたんですから。私たちも生きなければいけないし。歩兵たちの機関銃を借りてダーッと撃ったのです。」

 しかし真実和解委員会の調査で、保導連盟員の多くは共産主義とは無関係だったことがわかっている。

 キム・マンシクさんも今は犠牲者の冥福を祈っているという。


■ 大虐殺調査に暗雲?

 長く封印されてきた虐殺事件の調査を始めたのは、軍事政権と対立してきた民主化勢力の流れをくむノ・ムヒョン前大統領だった。

○ノ・ムヒョン大統領(当時)会見 (2008年1月)
「58年前の国民保導連盟事件は、我が国の現代史の大きな悲劇でした。私は大統領として、国家を代表して当時国家権力が犯した不法行為について心からお詫びいたします。」

 しかし2008年2月、大統領は保守系のイ・ミョンバク氏に代わった。

 真実和解委員会のキム・ドンチュン常任 委員は、今後、調査体制が縮小されるの ではないかと危惧している。

○真実和解委員会 キム・ドンチュン氏 インタビュー
「今の政権は、私たちのような歴史の調 査活動をよく思っていません。廃止まではしなくても、予算や人員の削減などで委員会の力を弱めようとするでしょう。」

 真実和解委員会による遺骨の発掘が始まった現場は、まだ11か所に過ぎない。









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最終更新日  2011.11.29 22:59:36
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