カテゴリ:健康~こころとからだ
いつも高級なものを食べているわけでもない。そんなに華美なものを求めているわけでもない。
5本入り78円のちくわを3日かけて食べた。国産の素材でしっかりした造りで何の不満もない。この安さなのがむしろおかしいのかもしれない。そんじょそこらの数百円する色どり良いテリーヌよりもずっとうまい。きゅうりと一緒に食べたり、ザーサイと和えたり、チーズとともにいただいたりした。 友人が自宅に来れば、それなりの食材のものを使って料理したり、その一品を出したりするが、自宅で普段使いの食事であれば、これで十分だし、どうもこちらのほうがごちそうだと感じてしまう。 「高い食材」で育っていないけれど、新鮮な地の物とか、素朴な味わいのものとか、小さいころ祖父母の家で食べたものが大好きだ。その昔、ちくわも斜めに切って、フライパンにサラダ油を引いて炒め、最後に醤油を回した一品をよく食べたものだ。不揃いのこんにゃくをしいたけと油揚げ、砂糖醤油で煮つけたものとか、そういうのを時々無性に欲する。 毎日、朝淹れるお茶も、長野の育ったところの無農薬のお茶だが、決して高いものではない。ただ、これをちゃんと鉄瓶で淹れて飲むかどうかで、一日のスタートが決まる。そう生活していたことが強烈に食の経験として残っているからだ。 私の母は、農家出身なのに米はあまり興味がなかったようで、いつも朝はトーストにマーガリン、ハムソーセージに目玉焼き、果物、コーヒーといったパターンだった。私はパンもコーヒーも苦手で、結局手をつけることはなかった。 金曜日は肉なしのシーチキンカレー、日曜の昼はいつも袋めんで作ったインスタントラーメン。たまに祖父母が送ってくる自家栽培のしいたけやこんにゃく、山菜は私にとってごちそうだったが、母は「またこんなもの(送ってきて)!」と毒づいてイヤそうにしていた。 だから、最終的には母親の料理とは別に自分でそういった食材を調理した。日曜の袋めん麺はのびのびになっていて嫌だったし、そもそも米が食べたかった。自然と他の家族と時間をずらして自分でチャーハンをこしらえるなどして食べるようになった。そういう食生活は小学生の頃からすでに始まっていた。 食生活は人間の心身を作る基本だ。そのカギを握るのは「おふくろの味」だが、これは母親の好みや考え方で形作られる。けれど自分の場合はそれは祖父母との食生活だったり、自分で調理したアレンジだったり、なのである。 と、ここまで書いてちょっと思い出した。 数年前にとある投資家さんが株で一発当てて資産が急激に膨らんだ。3億円運用すると銀行の与信で「職業/投資家」として名乗れる(※諸説あり)ので、いっぱしの投資家を名乗れるわけだから、気が大きくなったのだろう。以前は私が淹れた緑茶を飲んだり、それに対して美味しいと言ってくれたのだが、3億円を達成したのを境に、人間が変わってしまったんだと思う。 先方は私を無視するようになった。あるとき、他の友人もいるときに、ペットボトルのお茶を自販機で買って飲みながら(これみよがしにこちらに聴こえるように)「ペットボトルで飲めばいいんだよ。こんな安く買えるんだからお茶を淹れるなんて面倒でばかばかしい」と言った。 自分の食習慣や思い出ごと否定されたように思った。 その投資家さんはカネができて、付き合う人間も食習慣も変わったせいなのかもしれないが、美味しいもの、ごちそうだと思うものは人それぞれである。 それ以来、私も口をきかなくなったが、それでよかったんだと思う。食というのはその人の価値観がよくよく出るものだし、毎食積み重ねていくことで細胞が変わり身体つきも変わり、そして意識まで変えていく。あえて袂を分かつことを言われて、わざわざこれ以上人間関係を紡ぐ必要はもうない、と思ったのだった。 今日、買い物に出たら、またどんな「ごちそう」に出会えるのか。楽しみである。幸せの尺度は価格の高低で決まるものではない。 <お酒メモ> 8月11日水曜日 ドメイヌ ド・ラ・モット ソービニヨンブラン 白 2/3本 小布施 メルロ&ピノノワール クレレ 赤 ハーフボトル お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年08月12日 12時48分22秒
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