テーマ:幸せ体質になる(83)
カテゴリ:昔の話
同僚のSさんが、いきなり 「マイケルジャクソン好きでしょ、貸してあげるよ」 と言って、『This is It』のDVDを持ってきた。 昨年マイケルが急死したため開演できなかったコンサートのリハーサルを記録した映画だ。 率直なものの言い方だが、彼女は中国上海出身だ。 19歳で日本人のご主人と結婚して来日した。 現在は36歳なので、もう半分近く日本人でいる。 僕がマイケルを好きなことをなぜ知っているかと言う疑問もあったが、それ以上にSさんがマイケル好きというのはどうも繋がらなかった。 訊いてみると、結婚前ディスコで遊んでいたとき、マイケルが流行っていたそうだ。 17,8年前なら「Dangerous」の頃だ。 僕は35,6歳、人生の何度目かの谷底にいてもがいていた。 マイケルとはもう離れていた。
僕のマイケルの思い出は、さらに10年前、25歳からになる。 いくつかの偶然が重なり、駅前の喫茶店を任されることになった。 任されるといっても店があるわけではなく、案内されたところはビルの2階の30坪ほどの何もないコンクリートの部屋だった。 始めは、他に人がいて、それを手伝うのかと思っていたのだが、解る人間は僕一人しかいなかった。 任せようとした社長は、以前から面識があったわけではない。 この会社の他の業務の面接で会っただけだ。 僕はこの前に、共同経営で小さな店をやって、人間の嫌なところを見せ付けられ、もう水商売はこりごりだと思っている時だった。 当然断るつもりだったが、 「僕はついている人間なんだ。いつも何かしようと思うと、ひょっこり人が現れる。君の履歴書を見て、ははぁこれは神様が連れてきたなとぴんときた」 と空中を見ながら話す社長のペースに取り込まれて、とうとうやるはめになってしまった。 今思うと、僕も社長もずいぶん無謀な決断をしたものだ。 別に取り決めらしい取り決めもなく、赤字にしなければいいから、程度の約束ですべてを任されてしまった。 店のレイアウトを書き、備品を買い、メニューを決め、業者を選定し、アルバイトの募集をした。 1980年代は、まだ喫茶店全盛期で、当たればもうかる花形産業だった。 ただ、この街にはすでに3つの大型店舗が棲み分けており、そこに割って入るということは、よその客を引き剥がすことに等しく、熾烈な戦いとなった。 その一つは、喫茶店雑誌にも取り上げられるほどの有名店で、僕もお気に入りでよく使っていた。 狙う客層から考えて、その店ともろにぶち当たることになる。
僕は朝の7時から夜の11時まで、休みなしで働いた。 とにかく僕以外はみんな素人だったので、教えながら、育てながら、僕自身も試行錯誤を繰り返しながらで、店を抜けることができなかったのだ。 しかし、全く辛くなかった。 いや、辛かったのだけど、それを心のどこかで楽しんでいた。 店の音楽は、有線放送ではなく他店との差別化としてテープを流した。 その時に良くかけたのが、マイケル・ジャクソン初のアルバム『Off The Wall』だった。 喫茶店でソウルやアメリカンポップをかける店などどこにもない頃だった。 とにかく個性を出すことが主眼だった。 ただ、そういう店作りになった理由はもうひとつあった。 同じ2階のフロアに同じ社長の経営するカルチャーセンターがあり、そこのジャズダンスの生徒がレッスン帰りによってくれる。 大切な常連客だった。 ジャズダンスの生徒自身を、店の雰囲気に利用する目的もあった。
コーヒーも個性を持たせた。 今でこそファミリーレストランのドリンクバーでおなじみの、エスプレッソで淹れるレギュラーコーヒー(細かい泡の出る奴)は、僕が日本で最初に考案したものだ。 エスプレッソコーヒーは、蒸気で抽出する方法で、それまでは、深入りの豆を使い、デミグラスカップと言う小さなカップで砂糖とミルクをたっぷり入れて飲むものだった。 その機械を使って、普通のブレンドコーヒーが出来ないものか、機械を扱っている「ガジア」という会社の担当者を呼んで訊いた。 しかし、そんなことはできないと言う。 やったこともないと言う。 確かに、エスプレッソマシーンを使っている店でも、ブレンドコーヒーはドリップで入れていた。 僕はドリップでもサイフォンでもコーヒーを淹れることはできたが、このマシーンが使えれば誰でも淹れられる。 それで色々な豆で挑戦し、ようやくこれはと思う味に辿り着いた。 かなりグレードの高い豆でないと、えぐみがでてしまうことがわかった。 しかも、一杯一杯そのつど入れるので、豆の消費量も多かった。 喫茶店の生命線である原価率の低さを、自ら捨てる作戦だ。 それでも、このコーヒーで勝負したかった。 社長が素人だったから許されたけど、当時の常識からは外れていた。 メニューの名前も、世界の文豪の名前に引っ掛けてみたり、メニューのすみにショートショートのようなコラムを載せたり、マッチのデザインキャラクターも自分で書いた。 マッチが変わるたび、イラストも変えたので集めてくれるお客さんもいた。 アイデアはどんどん湧いた。 だけど時間がなくてなかなか実行に移せなくて、歯がゆいぐらいだった。
とにかく3年間、そんな風に夢中になって働きづめに働いた。 病気もしないわけではなかったが、休んだ記憶はない。 熱があろうと咳が出ようと、ふらふらになりながら、マゾヒスティックな快感を覚えながらスパゲティやサンドウィッチを作り続けた。 そして、マイケル二枚目のアルバム『Thriller』が出る頃は、店も軌道に乗り、他店との勝負にも決着がつき、余裕で聴けるようになっていた。 人も育ってきて、勤務体制もやや楽になった。
楽になると、何故か物足りなくなった。 そんなことを感じてかどうか、社長がまた転機を運んできた。 喫茶店のほうは、他の者に任せて、カルチャーセンターを見てくれないかという。 カルチャーセンターは、前出のジャズダンスの他に、ヨーガ・太極拳・クラシックバレエ・書道・華道・茶道・刺繍・編み物・英会話・三味線・・・・・ 店は自分の子どものようなものではあったが、育てた弟子もまた子どものようなものだった。 喫茶店は後進に道を譲り、新たなる挑戦を始めることに決めた。 引き受けたとき、カルチャーセンターの実質会員数は約1000人だったが、黒字経営にするには50%ほど増やさなければならなかった。 つまり、その時点では赤字だった。 担当するのは僕と、受付のパートさんだけ。 また、休みのない生活が始まった。
僕はとりあえず、すべての講座を勉強しようと全教室を受講した。 畑違いのことはまず飛び込んでみないことには扉は開かない。 それから、1000人の会員の名前を全員覚えようと思った。 会員は毎月月謝を払いに受付まで来るので、その時名前を覚えられる。 覚えて名前を呼んだ。 名前を呼ぶと皆驚くが、嬉しそうな顔になる。 それだけで、会員と心が繋がった実感がした。 入会者は毎月そこそこ来るので、退会者を止めれば何とかなるという作戦だった。 その通りになり、2年で会員は倍の2000人になった。 当然黒字に転換し、僕は二冠王を取った気分だった。
体験で入ったジャズダンスは病みつきになり、発表会にも出てしまった。 その時踊ったのがマイケル・ジャクソンの「スリラー」 ぼろぼろの服を着て、ゾンビになって踊った。 その頃、アルバイトで真面目によく働いてくれた女子大学生と恋愛関係になり、結婚した。 彼女はジャズダンスの生徒でもあり、スリラーも一緒に踊った。 だから彼女もこの曲に思い入れがある。
そんな順風な毎日の頃、思わぬ展開が僕を待ち伏せしていた。 社長に話しがあると呼び出された。 社長の本業である書店の経営が思わしくなくなっていた。 今度は書店を見るのかと思ったが違った。 もともと書店に入りたくて面接をしたのだ。 書店改造にも結構アイデアを持っていた。 しかし、そうではなく再建のためリストラをしなければならないと言う。 実は、その前からこの会社ではリストラを行っており、僕がカルチャーセンターに来たのも、前任者がリストラされたためだった。 僕は社内的には利益を出している自負があったので、まるで他人事として聞いていた。 ところが、今回のターゲットは僕だった。 売上げ成績はよい、新婚で、まだ若いから給料も安い。 こんな僕がリストラ対象になるとは考えてもいなかった。 しかし僕は入社以来、結構社長とぶつかったりしていた。 独断専行の癖があり、事後承諾で迷惑をかけたことも多々あった。 可愛がってもらえているとは思わなかったが、30を超えて身を固めて、真面目に会社に尽くすようにしようかと思った矢先である。 ショックではあったが、意地を張って了承した。
僕にとっての2度目のジャズダンスの発表会が最後のイベントになった。 出演者ではあるが、プロデューサーでもあったので、とにかく問題なく成功させることに腐心して最後のご奉公にした。 自分のダンスはひどい出来だったが、最後にピリエット4回という大技を成功させ、それだけで満足の講演だった。 ラストナンバーで全員がステージに立ち、拍手の中で幕が下り、それですべてが終わる段取りだった。 僕は舞台中央で、みんなの後ろからそのシーンを見ているつもりだった。 しかし、幕はなかなか閉まらない。 何かざわざわしていて、なんだろうと思っていたら、僕の前の人たちが、まるでモーゼの十戒のように人垣が二つに割れ、眼の前に道ができた。 すると、四人のジャズダンスの先生が大きな花束を持って、僕のほうへやってくる。 これを最後に退職することは先生たちには話していた。 花束を渡された僕は舞台の前に誘われ、まるで1000人の観客が僕に拍手をしてくれているかのような錯覚に包まれた。 涙で何も見えなかった。
あんなに感動したことはなかったのに、あれで映画が終わったかのように、新しい生活はなにも映さないスクリーンに変わった。 退社してしばらくして、マイケルの3枚目のアルバム『BAD』が発売された。 しかし、なぜか手に入れたいとは思わなかった。 20代で燃え尽きた僕は、いつしかマイケルとも決別していた。 『This is It』の映画が公開された時、妻に再三誘われた。 でも、どうしても見る気がしなかった。 一人で見に行った妻が興奮して話していても、こころに響かなかった。 理由はわからなかったが、今回DVDを見て、あの頃の曲が流れると、厨房の中から客席を眺めているあの風景がよみがえって来るのが解った。 僕にとって花の一時代だったはずが、断片的にしか語れない、触れられない過去に変わってしまっていた。
その後、僕は何度も同じ失敗をした。 いつも仕事をやりすぎるほどやって、勝手に自己悲劇化してしまう。 俺はこんなにやってんだぞと見せかけて、周囲と軋轢を作ってしまう。 己の自尊心が、刃物となって自分を切り刻む。 心を自傷して、その修復に苦悩する。 その挙句にぶっ壊れた。
あんなにしてやったのに 「のに」がつくとぐちが出る By相田みつお お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年09月19日 06時56分52秒
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