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カテゴリ:休日の過ごし方
ご無沙汰しています。
4月、五月と美術館通いが続きました。 国立近代美術館の安田靫彦展、山種美術館の奥村土牛店、国立西洋美術館のカラヴァッジョ展、東京都美術館の若冲展、サントリ美術館の原安三郎コレクション広重ビビット、東京国立博物館の黒田清輝展、東京国立博物館のアフガニスタン展、国立東京博物館の洛中洛外図屏風など、春風に誘われてあちらこちらに出かけました。 都内にはたくさんの美術館や博物館があって、月数回美術館に行ったところでとても回り切れないほど。 若冲については、NHKでのテレビ番組があったこともあり、連日30分はおろか最終日近くには上野駅の公園口に係官が待ち時間200分とかのプラカード(?)を持って立っているという状況も生まれていた。 30年ほど前、飯田橋で暮らしていたころジョギングで皇居まで行った帰りに国立近代美術館に立ち寄ってみたりしていたこともあったんですけど、すっかりご無沙汰になっていました。 美術に特段に知識もない私にとっても、画家の観察眼とその緻密で気品ある描写力には圧倒されて、改めて「観る力」を考えさせられました。 食い入るほぼ見つめて見つめて、その対象の真の姿をとらえるということ。草花の花の花弁一枚、葉の虫食い状態の様、昆虫の詳細な表現、光の受け方で微妙に変化する色彩。 人間の上場入力の70%から80%は視覚によるところともいわれていて、見るということの奥の深さを感じました。 私自身の観察力は、看護師という職業上友人などには「観察力が鋭い」と言われていたこともありましたが、まだまだ未熟。 一つの展覧会に、鉛筆とノートをもって、下手乍ら見つめてはスケッチしてさらにまた見入るという動作を繰り返していると、あっという間に2時間、3時間、4時間と時間がたち、くたくたに疲れ果ててしまいます。 見るということを意識していると、通勤途上に見える木々の色づき方や、イチョウのはっばの茂りようとか、朝と昼と夕に見える空の色や雲の形の変化とか、今まで脳細胞に刻まれなかったことがインプットされるようになり、自転車で町を移動する楽しみも増えました。 古代文明の壁画にすでに様々な表現が文化として残されていますが、人間はモノを描くという要求を持つ特性があるのだと感じました。 現在の東京では、古今東西の文明の遺産に触れることができます。 黄金のアフガニスタン展のように、戦争に破壊された文明の遺産が、学芸員の努力で秘密裏に隠されてわた、戦争が終わって再び人類の眼に触れるようになったということもあります。 日本画ももちろん素晴らしけど、中国や朝鮮半島、インドなどアジアのものなど、この地球上で人類が表現したものは皆素晴らしい。様々な国(地域)のそういった美術品に触れていると、どの民族がすぐれているとかという議論はとても愚かなものに見えてきます。 この地球上に戦争はなくならないし、その戦争で民間人を含めて何満、何千万、何億人という人が殺され、民族の文明も破壊されていく。 21世紀になっても、この愚かしいことはなくならない。アフリカや中東の人々が祖国を脱出して難民として命を落とすかもしれないたびに立ち亡くなっていく。 私はたまたま、第二次世界大戦で敗れた日本に生まれ、とりあえずアラカンになるまで無事に生きてこられたけれど、それも偶然に過ぎない。他の国に生まれたら、もうとっくにこの世にいなかったのかも。 経済格差とか教育の機会の不平等とか今の日本でもいろいろな問題は山積しているけれど、世界には生まれてすぐに殺されてしまう人も少なくない。国と国、民族と民族、宗教と宗教など様々な対立点があって、戦争や紛争になってしまうのだけれども、幼い子供たちが殺されていくことは許しがたい。人間はいつまでこんな蛮行を繰り返すのだろか。 今の日本でも、小学校の卒業文集に「平和」と書いただけで政治的発言だと教師が判断して、作文を書きなおすと言ことがあったらしい。 日々のささやかな暮らしを営むためには、平和であることは不可欠。それを政治的だという教師。ばかばかしい、と思ってしまうのだけれど、ばかばかしいだけで済まされない世の中になってしまうのかと恐ろしくなる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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