心の光と闇
レンタルビデオで「ロードオブザリング 二つの塔」を観ました。その中で出てくるキャラクターの一人に「ゴラム」というのがいます。このストーリーはあまりにも有名なので、知っている方も多いと思いますが、ゴラムとスメアゴルという2つの人格をもつ、二重人格のキャラクターです。 http://www.lotr.jp/film/exclusives/editorial/gollumsmeagol.html上記のサイトに詳しいことが載っていたので、一部を紹介しますと、ゴラムとスメアゴルの関係とはどんなものですか?ゴラムはいつも自分自身と対話している。つまりゴラムとスメアゴルの間には尽きることのない葛藤がある。ゴラムは強情で、腐敗していて、乱暴な性格だけど、だからこそたった1人で霧降り山脈に生き長らえてきた。一方、追いやられてきたスメアゴルの性格は、うぶで人にこびへつらうところのある子供っぽいものだ。とのことです。このキャラクターはとても興味深かったです。彼の中には単純にいうと「善人と悪人」の心があって、その2つの人格が交互で出てきて、独り言で言い合うんです。「あんなやつ信じるな」「いや彼はいい人だ」とか。人間はどうして「邪悪」と呼ばれるものを必要とするのか、あるいは頼ってしまうのか、ここしばらく考えていたのですが、答えを教えてもらった感じです。幸福な人は、心から人の幸福を望みます。不幸な人は、心の底では人の不幸を望みます。28日の日記にそう書きましたが、私にとって、「邪悪」というのは、自分の中に「不幸感」があるために、意識的、あるいは無意識的に自分以外の人や存在の不幸を望んでしまう心の闇の部分です。当然そんなことをしていれば、さらに自分の「不幸感」を強めてしまうことになるので、悪循環が起き、さらに人の不幸を見聞きしたくなります。自分が不幸なのだともっと強く思うようになります。そして、「不幸」には中毒性があるので、さらに強い「不幸」が欲しくなる衝動にかられ無意識的に自分が不幸に感じる選択ばかりしてしまう可能性もあります。自分の中毒症状を自覚しない限りは、なかなか心のクセを変えることは難しいのです。私も含め、誰もがそういう心の闇の部分を体験したことはあると思います。「闇」は「闇」を呼び、「光」は「光」を呼びます。「光」は愛と真実を知る部分「闇」は愛の光が届かない無知におおわれた部分です愛を知るためには、どちらも体験する必要があります。不幸は内面的な体験です。自分の内面に光の届かない部分があると、恐怖感と苦痛を感じます。それを、自分が自由になる、あるいは幸福になるチャンスなのだと思える人は、その闇は不幸感へは繋がりません。そこには自分に対する愛があるからです。闇が光に照らされて消えてなくなるのも時間の問題です。心に穴があいている、空しい、生き生きした感覚がない、気分がすぐれないそれでも自分の今の状態を受け入れ、このままでも幸せだと思える人もいるのです。不幸感は自分に対する無力感、そして宇宙や運命に対する犠牲者意識や恨みと不平等感などが伴っているのではないでしょうか。世界の全てを自分のものにしても、自分を愛せずにいると不幸感を感じるでしょう。私は「ゴラム」と「スメアゴル」の葛藤を聞いていて、ああ、やっぱり人間には神が必要なのだと思いました。神への信仰以外に人間が暗闇から出られる道はないと。私にとっては、神=愛=宇宙=思いやり=法則=神仏=真実=平安信仰=信頼=信用なので、言葉を変えると人間は心が平安であるためには愛や思いやりを知ることが必要で、宇宙や自分に対する信頼がなければ心の「闇」とは戦えないということです。明日につづく