悲しみの中で幸せは芽吹く
わたしは最近、また一段と左脳(論理思考)が働かなくなっているような気がする。といって、右脳(直感や感覚)はその分働いていてくれているのか?と自分に問うてみても、自分のことだからよくわからん・・・ひとつ、はっきりした傾向があるとしたら、「やたら、幸せを感じる、感じやすくなっている」ということかもしれない。これも、左脳が冬休みに入っているので、いつもこんなだったのか?あるいは今が特別そうなのか?には答えられないけど、毎日、「私はとても幸せだなあ」としみじみ感じている。逆に誰かが幸せではない状態、状況というのは、いまやニュースやドラマなどで、常に見聞きする機会がある。例えばTVでは、昨日あたりから、東日本大震災のこと、その被災者にまつわることがひっきりなしに放映されていて、可哀想で、あるいは人の善意と勇気と強さに感動して涙を流している。また、毎朝観ている、NHK朝の連続ドラマ「カーネーション」。現在放映中のストーリーは第二次世界大戦の真っ最中で、今日終戦を迎えたところ。主人公「糸子」の父、夫、幼なじみ、兄のように慕っていた知り合いなど、続々と病気や戦争で亡くなってゆく。戦争は惨い、惨すぎる。。。なんて辛くて酷い状況なのだろうと、胸が痛む。追い討ちをかけるように、今日、耳にしたご近所の悲劇。つい数日前のこと、私と同年代の母親と、14歳の中2の娘が同時に亡くなった。警察では状況判断から、母が娘を道連れに心中したとみているらしい。父親が海外出張中の出来事。亡くなった者も可哀想だけど、残された家族や友人はあまりにやりきれない。人間の世界というは、これでもかと言うようになんでこんなにも、心を痛めつけることが起きてしまうのだろうか?考えたって理由も避ける方法も分からないけど、ただ、今自分に与えられているささやかな平凡で穏やかで安らかな日々が、一体どれほどの価値があるものかを、その悲劇は教えてくれる。そして、今この手にしているかけがえのないものや繋がりがある日突然、受け入れ難い不条理な理由で突然奪い去られるということだってないとは言い切れない。今回の大震災のように。幸いにも、例えば我が家の愛猫が老衰で家族の手厚い介護の末に亡くなったように充分納得できる、諦めもつくような別れであっても、それでも私は、失ったものの価値の大きさに愕然としてしまっているくらいだ。いなくなった猫に常に与えてもらっていた幸福は、これほど大きかったのかと今、思い知らされている。だとしたら、家族や友人たち、今の状況や環境が私に与えてくれているものは、多分想像をはるかに超えていて、一体どれほど大きい恵みなのだろうと思うと、今手にしているものが、有難くて有難くて、自然と感謝の涙が溢れてきてしまう。そして、その気付きによる「感謝」は人に恩返ししたい、愛するものを失って辛い思いをしている人を思いやりたい、愛したいという欲求に、自分の中で自然に変化していっている。でも、私だって常にこの状態にいられるわけではなく、時には不平、不満、疲労、自己防衛、攻撃的になることだってある。それが人間として生きるということだから。人には余裕のあるときと、追い詰められて余裕が全くないとき、両方とも人生で経験するようになっているのだと思う。21世紀。人間にとっては、生きるのも、心に余裕を持つことも、なかなか大変な時代になってきたように思う。でも周囲の人たちと共に、より感謝に満ちたあたたかな世界をつくってゆきたい。今手にしているものの価値(恵み)に気がつけば、それだけでその人の中で「地上天国」は実現してしまう。実はそれが隠された最もシンプルな秘密。そんな風にも思ったりします。