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森 千春著 『「壁」が崩壊して 統一ドイツは何を裁いたか』 1995 丸善株式会社 p.165
1989年、東西ドイツを分かつ壁が崩壊し、共産主義国であった東ドイツが消滅した。 東西ドイツ時代、『国境』となっていた壁附近では何人もの脱走者が東ドイツの衛兵によって射殺されている。 その一連の事件が東西ドイツ統合後、西ドイツ側で裁判にかけられ、実際、当時の首相ホネッカーや実際にピストルを放った衛兵が実刑判決を受けている。 ここで問題となったのは、そもそも西側の法律で「当時の」東ドイツを裁くことができるかどうかということだ。 たとえば実際に脱走兵を射殺した衛兵にしてみれば、彼は脱走兵をそのまま見逃したとしたら、当時の東ドイツの法廷で、確実に実刑判決を受ける。 しかも国家反逆罪とまでは言わないまでも、かなりの重い罪となっていたようである。 だから衛兵の彼にしてみれば、しかたなくか、もしかしたら使命感すら持って殺人を遂行したかもしれない。 ではだれが悪いのか。 単純に富や権力を独り占めしていた一部の上層部の人間ということは簡単だ。 ただ、そのような国家(あるいは宗教でも良い)が成立する時代的・文化的あるいは社会的背景というものを見過ごしてはならないと思う。 無責任な発言をしてしまうと、多様な社会的思想の弁証法的な経時の作用と、それゆえに必然的に引き起こされる価値基準の動揺ではないかと思う。 そんな中でだれが悪いかなど特定することなどできない。 「東独で生きていた人は、濃淡の差こそあれ、ほとんどみんな灰色だったのだ。真っ白な人はごく一握り。真っ黒もほんの少数だった。それなのに、白か黒に分類するのは間違っている。」 動揺する価値基準で、「絶対的な」真っ白な規範を成立させることは不可能なのだ。 だからぼくは「ほとんどみんな」ではなく「みんな」灰色なんだと思う。 でもそれは仕方がないことだ。 建築基準法の地区計画のように、規範もこれからトップダウンでなくボトムアップで作り上げられる時代が来つつある。 キーワードとなっていくのは『緩やかな規制』ではなかろうか。 つまり数値によるリジッドな規制よりもリダンダンシー、すなわち或る程度の許容範囲を持ちうる制度を作っていくことである。 その中で、数字を守ることが大事ではなく、もっと高次なレベルでなぜそれらの規制が必要とされたのかを常に意識しながら自らの意志でその目標を達成していくという姿勢が育っていけばいいと思う。 これからのプロフェッショナルは、数値を丸暗記して法に合致しているどうかだけでなく、より住みやすい社会の建設へ向けての、住み手の意識を向上させる手助けもできなければならないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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