テーマ:たわごと(26737)
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何だか
『パプリカ』って凄いことになってんですね? 「Foorin team E」さんじゃ、英語で歌って 「Foorin楽団」さんは タップダンスの上手な少年が 盲目のドラマー少年を誘ったとか、誘わなかったとか、ネットニュースで見たような? これもそれも いわゆる ダイバーシティ(多様性)の模範例なんですか? まず 楽曲の英語バージョンで 「パプリカ」を世界中に広めたいのか?どうだか、知りませんけど。 ただ ♪パプリカ、花が咲いたら♪って部分は ♪Paprika.when our flowers start to bloome♪でいいの? あたし あんま英語得意じゃないけど そこそこ 意味は分かるんだよ?…日本語バーションも聞いているし。 けれど そもそも英語に ♪start to bloome♪って表現があるのか? いかにも 和製英語って感じがしませんか? それに ♪I will run to you. through the forest (where we played). singing songs (we made). and I will full both hands with flowers (along the way)…♪ってとこで この カッコの中って 日本語バージョンにはないよね? 日本語バージョンの ただ ♪並木を抜けて♪が、どうして(一緒に遊んだ)になるんだ? ただ ♪歌を歌って♪であって、(一緒に作った)なんて言っとらんだろう? で。 ♪手には 一杯の花を抱えて♪の花が、いつ、(その道端)のお花になった? なんだか 和製英語に、どんどん尾鰭(おひれ)が付いて いつの間にやら 全く別物になっちゃうかも?…それも多様性なのか? たとえば 将来的に。 韓国語バージョンも作られて。 いつの間にやら 慰安婦のお婆さんたち、大変だね?可哀想だね?とか 強制労働のお爺さんたち、大変だったね?悔しかったね?とか。 勝手に付け加えられて 歴史同様に まるで 別物に捏造されたとしても それも 多様性の範疇なのかい? そんで最後は ♪Rain or shine,we'll find a way to play again another day. let's come together now,point our fingers to the sky♪って どう考えたって ♪心遊ばせ あなたに届け 踵(かかと)弾ませ この指とまれ♪では、ないよね? そもそも ♪この指とまれ♪って習慣と言うか、伝統と言うか そういうの 英語圏にもあるんだろうか? なけりゃ そもそも論として伝わらないから そりゃ ♪みんな揃って、お空を指しましょうよ♪にもなりますよ? で。 日本語バージョンとは内容が全く違う、どころか 肝心要の韻(いん)を踏んどらんじゃないか? ここ この歌で、一番に重要でしょう? たしか 英語版の短歌とかあったハズから いまや 韻の踏み方くらい 英語の習慣にもあるんじゃないの? なけりゃ 五言絶句(ぜっく)とか七言律詩(しちごんりっし)とか 英語圏の東洋文学部で 漢詩の研究なんか、できないでしょう? どうせ 日本語バージョンとは、まるで違う風に歌っている部分でしょう? だったら 肝心の韻を踏むことこそ きっちり伝えたい!と創るのが…多様性じゃないのだろうか? そして。 市民団体さんに、メチャンコ叱られそうですけど。 盲目の少年ドラマーさんとか、両手がなく、足でDJさんとか あえて 出さなくちゃならないのでしょうか? 大むかし 福祉がらみのセミナーか何かで 講師先生のお話です。 私が初めて重度障害者施設にお手伝いで行ったとき 目の前で 子どもがベチャベチャに溢(こぼ)しながら食べているのを見て 思わず トイレに駆け込んで戻しちゃいました。 すると 施設の職員さんから もう、二度と来るな!とか、ど叱られたとか、どうとか。 きっと 講師先生は 福祉に立ち向かうなら 甘ったれた心根じゃなく きっちりかっちり覚悟が必要だ。 みたいな 福祉現場の心構えを言いたかったのでしょうけど。 べつに 目の前のベチャベチャ食べるガキの頭を張り飛ばしたワケでもなく。 その場で ゲロを吐いて、周りに迷惑をかけたでもないワケですよ? ひとり 便所に駆け込んで、ゲロを吐いたんでしょう? それの どこが、どう悪いんだ? あたしには 理解できなかったのですよ? と言うか。 目の前で 子どもがベチャベチャに溢(こぼ)しながら食べている、って それまでとは まるで異質の文化に直面して。 それでも 福祉に立ち向かう覚悟があれば 何が何でも みんな画一的に同じハズだからと 1ミリも動じることは許されない、とする発想こそ よっぽど 一方的・片務的で 多様性がないような気がしませんか? 食堂の 目の前で、ベチャベチャに溢(こぼ)しながら食べている子どもが居ていいように まるで異質な文化に直面したら いきなり トイレに駆け込んで、ゲロを吐くボランティアさんも居ていいのが、道理じゃないのかい? あたしは べつに 重度障害のお子さんを、どうこう言いたいんじゃないですよ? ただ 彼らを、あまりに、みんなと同一視し過ぎるあまり ある光景に 生理的に馴染めない人を、問答無用で排除しようとするのが あなたがたの 普遍的で一般的な多様性なのですか?って問いたいのですよ? たとえば アキバ・グループさんなり、坂系グループさんなりに イケメン・ジャニさんがひとりもいないのは 男女平等や男女雇用機会均等法に抵触するか?てぇと そうは ならないワケでして。 そもそも イケメンさんが見たいなら ジャニさんなり、エグザイルさんなり、そっちを見ればいいじゃん? ただただ それだけのお話ですよね? だから 盲目の少年ドラマーさんや、両手がなく、足でDJさんが見たいなら そういう バージョンを見ればいいのであって。 何が何でも そうじゃなきゃダメですよ!ってのは それ ダイバーシティ(多様性)を言っているようで じつは ダイバーシティ(多様性)とは 真逆な 独裁的で独占的な単視眼的発想のような気がするのですよ? そもそも 「パプリカ」って サビの部分は ヨナ抜き音階ですよね? けっか あたしたち日本人には どこか 民謡を聞いているような懐かしい心持ちになる? けれど そういう郷愁って そもそも 毛唐(けとう)さんと共有できるモノなんですか? そりゃ タンゴやサンバで哀愁を感じる民族性はあるでしょうよ? ただ ああいうクソ騒々しい中 そういうの あたしたち日本人も共有できますか? それ 脳髄が、まんまラテンのパリピさんしかムリなんじゃないですか? 根っ子の部分は 個々人で みんな驚くほど違うんですよ? ただ 風土や社会性で 同じ民族なら そこそこ 同じような感傷を得るようになる部分が少なくないのかも知れません? そういうの まるで無視して。 何が何でも みんな同じですよ?同じに扱わなきゃダメなんですよ!こそが たったひとつの 正しいダイバーシティ(多様性)なんですよ?って さすがに ちょっと乱暴に過ぎやしませんか?と。 ダイバーシティ(多様性)って その 言葉まんまに。 そもそもからして みんな違うんですよ? それを 無条件でお互いに認め合いましょうよ?が、スジじゃないのかな? それを 大前提にするなら。 放っといても 伝わるものもあれば どうしたって 伝わらないものもあるワケで。 それを 何が何でも伝えなきゃ!って努力は、美しいでしょうけど。 そんな 大した意味もなく?和製英語に尾鰭が付いたり 韻を踏むべく場所で、1ミリも、その形跡がない? そこまで 無理をして 世界に伝えなきゃならないモノって、一体全体、何なんだい? 異人さんに あたしたち日本人の感傷を伝えるのがダイバーシティじゃないんだよ? 無理矢理に 障害者さん、健常者さんを混在させるのがダイバーシティじゃないんだよ? あんま ゴチャゴチャ言わないで。 ただただ 何種類もの「パプリカ」がある。 それだけで素晴らしい? すなわち それが ダイバーシティ(多様性)なんだろうな?と。 そこに 感心するワケですよ?…あたくしとしては。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年01月04日 03時42分35秒
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