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2005年10月04日
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カテゴリ:私の願い
 今日、2回目の日記です。私の父のことを書きます。
 ちょっと悲しい思い出話ですので、興味のある方だけお読みください。m(__)m

hanawa


 じつは、今日は、私の父の20回目の命日でした。

 私が19歳のとき、父は亡くなりました。

 喉頭がんでした。
 まだ、52歳でした。

 最初に父のがんが声帯に発見されたのは、私がまだ13歳、中学2年の秋でした。そのときは、ポリープということでした。がんの疑いも捨て切れなかったのか、或いはがん化する可能性があったのか、そのあたりのいきさつを私は知りませんが、その段階で、声帯を摘出する手術も選択肢にはあったようです。しかし、兄が高校2年生、私は中学2年生・・・という、これからまだまだお金のかかる子供たちを抱えていたので、声帯を摘出して話すことができなくなる・・・という手術を、両親は選択しませんでした。
 父と母で、話し合って決めたことのようです。
 告知が十分にされる時代ではありませんから、どのような説明の元に、そういう判断をしたのかもわかりませんが・・・。結果としては、そのときにとってしまわなかったことが仇となりました。

 最初の手術のときには、ポリープということでしたから、その部分を削り取る手術が行われました。よく、芸能人の方なんかも、声帯ポリープの手術を受けていますよね。「ポリープの手術」のあとは、しゃがれていた声も普通に出るようになって、元気でした。
 「がんにならないように」ということで、術後1年間、2週間に1回の割合で、放射線を当てていました。(コバルト照射と呼んでいました)普通に会社に通って、仕事をしていました。

 それから3年後、また、声がしゃがれ始めました。そのときも、「ポリープ」を削り取る手術を受けました。
 さらにその1年後、また「ポリープ」を削り取りました。
 そしてその1年後、また声がしゃがれ始め、レーザー光線で患部を焼くことになり、埼玉県の病院を紹介され、入院しました。

 レーザー光線で焼いても、怪しい細胞は消えませんでした。
 数ヶ月間入退院を繰り返し、レーザー治療をしましたが、効果がなかったようです。

 父は、声帯を摘出することになりました。
 声帯を摘出するときに、付近にあった気管も一緒にとるので、鎖骨と鎖骨の間に穴を開け、呼吸はそこからすることになりました。口は、食べ物を食べるためだけのものになり、鼻は、全く機能しない、飾りとなりました。

 父の手術は、私の兄の22歳の誕生日の日でした。

 それから1ヵ月後、父は無事に退院し、不自由な体にはなったけれど、それからずっと、元気でいてくれるものだと、私は信じていました。

 父は、若い頃に肺結核で5回も手術をうけた経験があり、胃潰瘍で胃の4分の3も無く、交通事故で自動車が1回転したときにも無事だったというものすごい経験をしていた人でしたので、
「お父さんは不死身だ」
という、その言葉を、あっさり信じていたのかもしれません。
 何回も「ポリープ」で入院していたから、慣れていたのかもしれません。

 あるいは

 こんなにひどい目にあってきた父が、まさか、これ以上ひどい目にあうなんて、そんな過酷な運命を、いくら神様だって用意していないだろうと、どこかで信じていたからかもしれません。

 父は、左足もちょっと不自由だったのです。中学生のときに大腿骨折をしてしまったので・・・。
 昭和21年の頃のことだったので、十分な治療が受けられませんでした。小学校の頃はずっとリレーの選手で、俊足だったことが、自慢の人でした。でも、そういうことがありましたので、それ以後、スポーツはあまりできなくなりました。

 胃潰瘍で胃を取ってしまっていたので、食べる楽しみも、あまりできなくなりました。

 歌うことが大好きで、陽気に歌を歌っていました。でも、歌うこともできなくなりました。

 それでも、父は、病気に対する恨み言は、言いませんでした。

 父の手術から1週間後の私の誕生日には、こんなメモをくれました。

「お誕生日おめでとう。
 お父さん、こんなでごめんね。
 お父さんが元気になったら、おいしいものを食べに行こうね。」


 でも、その約束は、果たせませんでした。


 父は、20年前の今日、旅立ちました。


 父は、そういうがんだったので、その当時では珍しいことですが、完全に告知を受けていました。気管も声帯も取るということを決断するには、がんという理由以外、説明がつきませんから・・・・。(さすがに、最後の再発のときには、詳しい説明は受けていなかったと思いますが、状況から判断して、わかっていただろうと思います)

 告知については、今でもいろいろ言われていますが、私は、自分ががんになったら告知を受けたいし、父の姿を見ていたので、告知があったからこそ、あんなふうに振舞えたのかもしれない・・・とも思っています。
 ここでいう告知は、病名や、病状のことに関してということであって、安易に余命を告げることでは決してありません。父の主治医は、父に対しても、家族である私たちに対しても、最後まで、余命なんていいませんでした。


 あの当時を考えると、最後の最後の再発のときには、もう、なすすべが無いということが、本当に悲しかったことを思いだします。

 だから、母の手術のときにも、もうなすすべが無いのかと思い、絶望的な気持ちになりましたが、抗がん剤の存在を知って、本当にすくわれました。

 今は、抗がん剤が、たくさんあるのです。

 何もやらずに諦めるなんて、本当にもったいない。

 ちゃんと手当てすれば、副作用だってコントロールできるのに、取り組もうともしない医師や行政に、怒りを覚えました。
 少しずつ、その辺の制度も動き始めましたが、全国レベルで考えると、本気で取り組んでいる医師も病院も、とても少ないと感じます。

 私がいつか、父に再び会う日に、
「がんばったね」
といってもらえることを夢見て、私は、この問題に取り組んでいます。





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Last updated  2005年10月04日 22時02分21秒
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