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カテゴリ:1970
はちみつぱいは本当に特別なバンドだったんだな、と改めて思わずにはいられない。 もはや語り尽くされている感のあるはちみつぱいだけど、自分なりに辿ってみたい。 あがた森魚こと山縣森雄は1948年9月12日、北海道留萌市に生れている。留萌市は留萌支庁の南部にあり日本海に面しており、現在の人口は2万人台だが当時はどの位だったのだろうか。やがて一家は小樽に引越し、更に青森に越したという。父親の仕事の関係だったと思われるが、父親が映画「僕は天使ぢゃないよ」(1974年制作)や大作「日本少年」(1976)で暗喩されているように船乗りだったのかどうか、ちょっと分からない(漁船か連絡船かも含めて)。 やがて有名進学校である函館ラ・サール高等学校に合格して函館で学生生活を送り、1967年4月、明治大学進学のため上京。18才の時だ。 同年、もう一人の男が北海道から上京している。和田博巳。1948年4月6日、北海道生れ。あがた森魚と同年の和田博巳は、高校時代はバンドを組んで活動していたという。大学受験に失敗し、浪人生活を送るためあがた同様に1967年4月上京。 あがた森魚は明治大学に入ると演劇サークル「現代」に所属して活動したり、あるいは大いに影響を受けていたボブ・ディランよろしく、弾き語りの練習をしていたと思われる。 上京から2年半経った1969年10月28日、レコード会社主催のオーディション「70年フォークコンテスト」に参加。その帰りに一枚のコンサートチラシを目にする。タイトルは『ロックはバリケードをめざす』、会場はお茶の水電通ホール。興味を惹かれ行ってみるとそこに出演していたのは、早川義夫、遠藤賢司、ヴァレンタイン・ブルーの3組だった。11月10日にソロアルバム「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」を出すことになる元ジャックスの早川義夫、すでにシングルデビューしていて70年4月にアルバム「NIYAGO」を出すことになる遠藤賢司、この日がデビューステージで後にはっぴいえんどと改名して70年8月にアルバム「はっぴいえんど」を出すことになるヴァレンタイン・ブルー。まさに衝撃的な出合い、だったと言う。 その1969年の暮れ、あがた森魚は原宿セントラルアパートにあったURC東京事務所をアポなしで訪ね、ディレクターをしていた早川義夫に「歌を聴いてほしい」と頼んでいる。 そのへんのいきさつはこのブログの5月15日「僕は天使ぢゃないよ」の回に触れている。 荒削りで未完成だが、なにか可能性を感じた早川義夫は翌1970年1月14日に都市センターホールで行われる『ICF前夜祭』のステージに出る様、勧めている。 その『ICF前夜祭』がやはり初ステージで、すでにURCからのデビューが決まっていたのが斉藤哲夫だ。 斉藤哲夫は1950年4月4日、埼玉県生れの東京・大森育ち。あがた森魚の2才下ということになる。1969年4月明治学院大学に進学した斉藤哲夫は、主に立教大学のサークルが中心になっていたフォーク団体「ルネッサンス」に所属していた。 そこで知り合ったのが、立教大学の渡辺勝だ。 渡辺勝は1950年8月1日、川崎生れ。ピアノを習っていた渡辺勝は駒場東邦高校卒業後の1969年4月、立教大学に進学。作詞作曲研究会である「OPUS」に所属している。 同年その「OPUS」に入って来たのが1949年4月23日東京生れの岡田徹。更に1年後には1950年12月21日神奈川・逗子生れの武川雅寛が、更に2年後の72年には1954年2月27日東京生れの白井良明が立教大学に進学して「OPUS」に入っている。竹田裕美子もいたと思われる。 この1970年1月14日『ICF前夜祭』に出演したのが、遠藤賢司・中川五郎・愚・若林純夫・斉藤哲夫・あがた森魚、そしてヴァレンタイン・ブルー等。 あがた森魚はこの頃、蒲田の野村證券で黒板書きのアルバイトをしていた。休み時間には弾き語りの練習をしたり、会社のクリスマス会では歌を披露したという。その会社に勤めていたのが鈴木慶一の母親だ。 鈴木慶一は1951年8月28日、東京・羽田生れ。父親は声優で俳優もしていた鈴木昭生(2009年8月18日他界)。この時、都立羽田高校(現・都立つばさ総合高校)の3年生だった鈴木慶一は学園祭のミュージカルで自作曲を全部出して、ある意味燃え尽きていた。ギターやピアノをこなす高校生だったが、だんだん学校にいかなくなり家に引きこもり始めていたようだ。受験を前にしたこの冬、母親はあがた森魚に息子の話をして『うちに遊びに来て』と声をかける。あがたは自分も出演する予定の2月28日の『るねっさんす冬祭り』のチラシを手渡したという。鈴木慶一は迷いながらもそれに出かけることに。そこであがた森魚と斉藤哲夫の歌を初めて聴くことになるわけだ。しかし誰があがた森魚なのか分からなかったという。 そして3月、あがた森魚は羽田の自宅に鈴木慶一を訪ねることになる。 『窓から聴こえてくるフランク・ザッパのフル・ヴォリュームのサウンドに招かれるようにさまよい入った応接間の古色蒼然たるソファの上に不精ひげを生し、パジャマを着たままひざこぞうをかかえて、あの人懐っこそうな笑顔でそこに座っていたのが鈴木慶一だった。北海道から出てきた僕が東京の現在を必死に吸い取ろうとしていた反面、鈴木慶一は、そんなことは意にも介さずか、彼の小さな牙城にやんわりとひきこもっていた。 彼の物腰の柔らかさ、言葉の機微に、こいつとは友達になれるかもしれないという予感がした。』と、後にあがた森魚は書いている。 1970年2月、斉藤哲夫は「悩み多き者よ/とんでもない世の中だ」でURCからシングルデビュー。立教大学OPUSの渡辺勝はこのレコーディングにピアノで参加している。共に19才。 鈴木慶一は1970年3月、羽田高校を卒業すると予備校を3日で辞めて、あがた森魚のバックを務めるバンドを結成している。"アンクサアカス"と命名されたこのバンドは羽田高校のバンド仲間だった山本浩美・山本明夫、そしてあがた森魚の4人から成っている。 5月3日、"アンクサアカス"はジャックス・ファンクラブ主催のコンサートでステージデビュー。 そして5月29日、および30日。明大生だったあがた森魚が出演する明治大学和泉祭で、あがた森魚・鈴木慶一、斉藤哲夫・渡辺勝の4人が出会っている。 僕の好きな、とっても好きな4人の記念すべき出会いだ。 こうして羽田の鈴木慶一宅に4人を始め、OPUSの面々も出入りしていくことになる。ギター・ピアノ・オープンリール・・・はたまたガリ版印刷機。羽田の家は音楽スタジオとなっていく訳だ。 その家にもう一人いたのは鈴木慶一の3つ下の弟、鈴木博文。1954年5月19日生れ。博文は都立の名門、日比谷高校に進学していた。 このような状況下の1970年の夏、あがた森魚は自己表現の欲求を満たすべくレコードを自主制作することを決意する。 鈴木慶一、渡辺勝、ピアノの小坂陽子、ドラムの小野太郎等に加え、岡林信康等のバックを始めていたはっぴいえんどの細野晴臣にベースを頼んでいる。さらに「風都市」を設立していくことになる石塚幸一・前島邦昭も参加している。 こうして作られたのがこの「蓄音盤」だ。 16万円の制作費がかかったため、100枚作って1枚1600円で売ったという。 全8曲中6曲がオリジナルで、早川義夫のカバーとボブ・ディランのカバーがそれぞれ1曲。 このアルバムは、なんとも言えない不気味さと、あがない難い存在感で満たされている。 ジャックスはとても洗練された不気味さを持ったグループだと思っているが、ここにいるあがた森魚はまるで洗練を拒むかのような不気味さだ。 ひびの入った分厚いメガネで早川義夫の前で一心に歌ったというあがた森魚。それは逃れられない呪縛のような歌ではなかったかと思う。 歌いたいという欲求と本能がそのまま焼付けらけたかのような一枚。 あがた森魚の歌を聴いてしまった周辺の鈴木慶一らは、訳もわからぬままこの"音楽"という名の青年の主張に感動を禁じえなかったのではないだろうか、とさえ思えてしまう。 不完全ゆえのオリジナリティが目映い。 "はちみつぱい"というバンド名が登場するのはこの後のこと。 写真の「蓄音盤」はもちろん復刻盤だ(1997年ヴィヴィッド・サウンド・コーポレーション)。マスターテープは紛失しており、アナログレコードからの再生だ。 一度だけオリジナル盤を見かけたことがある。その値段もさることながら、その妖しいまでの存在感に目が逸らせなかった。 あがた森魚と同じ1967年に北海道から上京した和田博巳は、1969年春に3度目の受験に失敗。その間には新宿のジャズ喫茶ディグに通い詰めてレコード係になったりしている。その熱が高まり、親に大学にやったつもりで金を出してくれと頼み込み、高円寺にジャズ喫茶"ムーヴィン"を開店。翌年からはロック喫茶として存在感を示していくことになる。 こうして"はちみつぱい"を巡る若者たちの1970年代は幕を開けた。 後にこのストーリーに関わってくる本多信介(1950年6月1日広島市生れ)も、かしぶち哲郎(1950年11月9日栃木県宇都宮市生れ)も、駒沢裕城(1950年3月9日東京生れ)も、椎名和夫(1952年7月14日生れ)も、この東京の街の片隅でそれぞれのストーリーを生きていた。 ではでは。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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しっかり読ませていただきました ありがとうございます あがた森魚「蓄音盤」の存在自体知りませんでした 一度聴いてみたいですよ! はちみつぱいのBOX 「はちみつぱい・Live Box 1972-1974 The Final Tapes」 これもリリースされてるの知らなかった ビックリしたのがデイスク2仙台でのライブ 12月18日LOVELY FOLK IN XMASの音源 この時ボクは高校生でしっかりその現場にいました まさかそのテープがあっただなんて よく残っていたものだと本当に驚きです!! ちなみにあがた森魚もいました!! ほかには加藤和彦.西岡たかし.加橋かつみ.五輪真弓. ケメ.ブレッド&バター.チューリップ.黒崎とかずみ. 地元仙台の繭.岩淵亮 宮城県スポーツセンターが会場で 満員でしたボクは1階つ列31番 前売り1,500円/当日1,700円 信じられますかこの値段?いい時代でした!! 70年代ボクにとって本当に青春真っ只中でした!! 思い出がよみがえった次第でした (2009.12.16 21:41:24)
いやあ、何が貴重かって、このkey-sanさんの証言こそが貴重です。
CDのライナーに載っているのは、1972/12/18(仙台)「Lovely Folk X'mas」。これだけですからね。 いやあ、この証言は本文で使わせていただくかも知れません。すごいです。 (2009.12.17 14:35:15) |