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すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

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 J佐藤@ Re:KEEBOW「GIVE ME A KISS」(1975.11.21 ポリドール MR5069)(07/15) 私も高校の同級生から本盤を76年にもらい…
 石川Q右衛門@ Re:「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」(1970.3 ユーゲント)(03/02) 何度もこの記事を読んでますの。正解も出…
 ごむてつ@ Re:ノラ「ノラ VOL.1」(1973.5.10 アードヴァーク AV-3004)(11/10) デビューした頃、テレビ神奈川のヤングイ…

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2017.06.19
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カテゴリ:1975
"社会現象"とまで言われた人気絶頂のキャロルが、1975年4月13日の日比谷野音ライブを最後に
解散する。
矢沢永吉はソロ活動へ向けて、水面下で入念に準備を進めていたという。
ウィキペディアによると、
『解散が決定的になった頃、矢沢はソロ活動を行う際に(契約レコード会社である)フォノグラムとの
間に起こり得る問題を未然に防ぐため、単身CBSソニーに行き、幹部と面会して自らのソロ活動を
担保とした金銭面・ビジネス面の話をまとめている。面会後、CBSソニーから借金をして多大な
金額をキャッシュでフォノグラムに払い、同社のプロジェクトチームが動き始めた』

さらに矢沢永吉はキャロル解散前に、極秘裏に自作曲のデモテープを持って(作詞をほとんど
しないため、ハミングとか英語風とか)、単身ロスへ。4人のプロデューサーに会っている。


矢沢永吉がいかに凄い人であるかを物語るエピソードだ。危機管理能力といい、行動力といい。
フォノグラムとの契約があと何年で、違約金がいくらであるのかはわからないが、どうしても
レコード会社を変えたかったのであろう。
キャロルのジョニー大倉、内海利勝はそのままフォノグラムからソロデビューしている。

解散直後の5月、ロスのA&Mスタジオでバックの演奏をレコーディング。スタッフはすべて
現地のトップスタッフだ。
帰国後、歌入れをするにあたって、作詞を依頼していったのではないかと思われる。

『詞ですか。ぼくは一切関知しません。というのはね、こういうことなンですよ。ぼくの友人に
何名かいるんですョ。作詞家ね。そこで、いろいろ話しあって、矢沢ってこういう人間なのかって
知ってもらって(中略)
エエ、松本(隆)さんも書いてくれてます。それに西岡恭蔵さんね。なかにはウチの友だち。全然
作詞家なんて名前ない友だちが、書いてみるべえって感じでね。』
(ヤングギター75年11月号・大貫憲章のインタビューより)

CBSソニーへの移籍が発表されたのが9月1日。それまでは、矢沢永吉と西岡恭蔵は同じレコード
会社だったわけで、面識も交流もあったと思われる。

9月21日に発売された矢沢永吉のファーストアルバム「アイ・ラヴ・ユー、OK」全12曲のうち
松本隆が2曲、西岡恭蔵が3曲、相沢行夫が7曲で作詞を担当している。
(相沢行夫は、当ブログ2011.11.10「ノラVOL.1」に詳細があります)


「アイ・ラヴ・ユー、OK」矢沢永吉(1975.9.21 CBSソニー SOLN-4)
トム・マック プロデュース
ジャケット写真は渋谷センター街のゲームセンター前で撮影されたという


『夜中のハイ・ウェイで奴は死んだ
アスファルト血にそめて 夜空を見つめ
好きな女ができたと 照れて
オレに教えてくれた あいつなのに
ひとりで死ぬなんて 馬鹿な奴さ

life is vain

奴の面影追って夜を
ひとりあてなくゆけば響くあの唄
ひび割れた唄声で life is vain』
(「ライフ・イズ・ヴェイン」西岡恭蔵/作詞・矢沢永吉/作曲)

矢沢永吉がポップス宣言をしたこのアルバムは、セールス的に芳しいものでもない。
特にアレンジがちょっと・・・。
矢沢永吉は西岡恭蔵の作詞を気に入ったようで、次作「A Day」では5曲で作詞提供している。



解散したザ・ディランII、大塚まさじはマイペースの調整期間か。
相方だった永井ようは、関西フォークのドン・西岡たかしに誘われ、金森幸介・中川イサトと
共に"五つの赤い風船'75"に参加している。URCからアルバムを1枚出したほか、ライブツアーも
行なっている。


加川良は、東京キッドブラザーズの東由多加に着目され、フォークミュージカル「十月は黄昏の
国」の主役および音楽監督に抜擢されている。この公演で坪田直子と柴田恭兵がデビュー。


「十月は黄昏の国」小椋佳・加川良(1975.8 エレクトラ L-8068E)


山岸潤士はウエストロード・ブルースバンドのデビューアルバム「BLUES POWER」(1975.4.1
バーボン BMC-3001)をレコーディング後、脱退し渡米。
帰国後、75年8月9日のアマチュアバンドコンテスト「'75 YAMAHA 8.8 ROCKDAY」の
フェスティバルにゲスト参加することになり、"山岸潤士スーパーグループ"名義でセッション
バンドを結成している。
ドラムは、73年末"バッドクラブバンド"が解散後渡米していた土井正和、ベースはヤマハの
合歓音楽院出身の永本忠、キーボードは前日8月8日の決勝大会で、ベスト・キーボード・
プレーヤーに選ばれた神戸のバンド"アイドル・ワイルド・サウス"のチャールズ清水が参加。
チャールズ清水はまだ10代、インターナショナルスクール出身で留学経験もあった。前日の
プレイを買われての参加と思われる。さらにアメリカ修行帰りの北京一がボーカルで(決勝大会の
MCを担当していた)、石田長生もギターで、"上田正樹とサウス・トゥ・サウス"にいた堤和美が
パーカッションで参加。ライブLPに2曲が収録されている。


「'75 8.8 ROCKDAY」(1975.10.1 バーボン BMC-1001〜2)


ライナーに三橋一夫は、その様子を書いている。
『体を動かさずにいられない音楽は、京都の山岸潤士スーパーグループに至って一つの頂点に
達したようだった。この日は北京一を、石田長生を、くんちょう(堤和美)と近所の人たちを加えた、
まさにスーパー・スーパーグループ。ブルース?ソウル?かれらの髪型やコスチュームだけでなく、
ステージから目をそらし音だけ聞いていても、アフロ・アメリカがあった。
そのスタイルを言うのではない。スタイルは変わる日がいつかはあるかもしれないが、エキサイ
ティングなヴォーカル、絶対に聞き手の脈がドクドク鼓動してしまうビートとサウンド。
加えて、くんちょうと近所の人たちもステージに上がって所せましとなってはやすパーカッション
には、ふと、ひょっとしたらこれは日本のポリリズムの幕開けではないかなどと、勝手に夢を
ふくらませてしまった』

ちなみに決勝大会では岩本一郎(d 元ブードゥーチャイル。ザ・ディランIIのデビューアルバム
「きのうの思い出に別れをつげるんだもの」に参加)、角谷安彦(b 元ごまのはえ〜ココナツバンク。
西岡恭蔵のデビューアルバム「ディランにて」に参加)が組んだバンドで、大上留利子(v)を擁する
"スターキング・デリシャス"、篠原義彦(v のちに円広志としてデビュー)の"ZOOM"、"激突モモンガ
パートII"の3組が優秀バンド賞を受賞し、翌日のフェスティバルでも演奏している。

この2枚組のライブLPを聴くと良く分かるのだが、出場アマチュア・紫らのゲストを問わず、
みんな英語で歌っている。"山岸潤士スーパーグループ"の北京一が唯一日本語のオリジナル曲
「かたつむり」「ストーン・ジャンキー」を歌っているが、これも歌というよりはトーキング
ブルースだ。
この時代、特に関西においてはまだまだ日本語ロックが根ざしていないことがわかる。
ウエストロード・ブルースバンドのデビューアルバム「BLUES POWER」も英語カバーだった。
サウス・トゥ・サウスと憂歌団はうまいこと日本語で歌っていたが。

"山岸潤士スーパーグループ"は、"北京一とバッド・クラブ・バンド"と名を変え活動。
パフォーマンスは一品だが歌唱力に難があった北京一に加え、ボーカルにサウス・トゥ・
サウスから脱退した萩原義郎が組んでいたバンド、コールド・ラビッシュから19才の砂川正和
をスカウト、更にぴんくすやウィーピング・ハープ・セノオで活動していた18才の国府輝幸(k)を
加えて8人編成となり、"SOOO BAAD REVUE(ソー・バッド・レビュー)"と再改名。
"上田正樹とサウス・トゥ・サウス"の対抗馬になっていくことになる。また、マネージメントを
担当した阿部登は、石田長生をオレンジレコードの実質的な音楽監督ととらえ、ソー・バッド・
レビューをレコーディングの要ととらえていたと思われる。


大塚まさじは1年弱の活動休止を経て、10月からオレンジレコードの制作でレコーディングを
開始している。


この75年末、中川イサトが『音楽を辞めたい』と洩らしたことがきっかけで開かれたという
神戸でのライブが、レコーディングされることになる。
オレンジ所属のシンガーたちを中心に、中川イサトとコラボしていくステージだ。
中川イサトのナンバーから大塚まさじが「俺が旅から帰った時は」(「1970年」に収録)を歌い、
金森幸介が「ひなたぼっこ」(「黄昏気分」に収録)を歌い、西岡恭蔵が「今日はまるで日曜日」
(「1970年」に収録)を歌い、シバが「風の吹く朝」を歌い、いとうたかおが「街は」を歌い、
加川良が「あふたぁぬうん」(3曲とも「黄昏気分」に収録)を歌い、といった感じ。
(なお、当ブログ2009.10.25「鼻唄とお月さん」に詳細があります)


「鼻唄とお月さん」中川イサト LIVE AT THUNDER HOUSE KOBE 29TH.DEC.1975
(1976 オレンジ自主制作 ORL-0001〜2)

どのテイクも味わい深いのだが、特筆すべきは西岡恭蔵による「今日はまるで日曜日」で、
その力の抜け具合がすばらしい。一歩違うポジションに行ってるかな、という出来で、
それが次作の「南米旅行」に繋がっていく。
大塚まさじと西岡恭蔵による「サーカスにはピエロが」もまさに絶品。


「鼻唄とお月さん」LIVE AT THUNDER HOUSE KOBE 29TH.DEC.1975
(1976 フィリップス S-7002)ダイジェスト盤。ジャケット裏の写真。糸川燿史撮影。
左から金森幸介・加川良・大塚まさじ・シバ・長田和承(タコヤキ)・中川イサト・西岡恭蔵・
いとうたかお


またこの75年、カルメン・マキ&OZ、イエロー、シュガーベイブ、サンハウス、愛奴、
福岡風太がロードマネージャーを務めるセンチメンタル・シティ・ロマンス、めんたんぴん、
安全バンド、憂歌団、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、ルージュ、クールスらが相次いで
レコードデビューしている。


西岡恭蔵サンの次の次のレコード「77.9.9 京都「磔磔」」が、手元にありません。
よく見かけてはいるレコードなのだが、いざ必要となるとなかなか見つからないもの。
先日久々に街に出掛けたので、ちょっと探してみたが無かった。なぜか代わりにこんな
レコードを買って来る始末。更新が延びる可能性が大です。


「仮面劇のヒーローを告訴しろ」頭脳警察(1973.7 ビクター SF-1039)





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Last updated  2017.06.21 08:40:01
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