カテゴリ:障害者・人生・自分史
愛知のHさん 妻とは親子の絆を結んでいた方が亡くなりました
お葬式前日の夜に訃報の連絡 どうしようもありませんね 弔電を打って Hさんの本当の娘さんと連絡取り合い 先日の日曜日にお参りに行ってきました Hさん宅で待ち合わせ Hさん宅まで、私達は 約280km 娘さんは子供を連れてきていました 妻、Hさんの娘さんとお孫さん 会って、すぐに昼食を食べ お寺に 住職さんのお話を30分位お聞きしてから 本堂奥のHさんの遺骨に線香を 涙を必死にこらえ・・・ 住職さんは、Hさんに教わったそうです 戦時中に そうですHさんは大正生まれの教員でした Hさんの人生を聞かされ、また涙 教員の見本です 住職さんのお話は 昔の私の住む金山町もよく似てきました そんな苦労がHさんを神様のような人にしたのでしょうね 大正、昭和、平成、令和と生きられたすごい方です Hさんの住まいは空き家? 今は娘さんが休日に整理をしているようですが 今後どうなっていくのでしょうね 本当に悲しすぎます もう、電話もかかってきませんね 年賀状も届きません お話をもっとしてほしかったです 腐りきった人間が多い世の中 私の子供たちが受けてきた恩 かえすことはお墓参りと正直に生きることですね ため息ばかり 私以上に妻の心は・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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さぞかし沖を落とされておられると思います。 少し落ち着いたら、「千の風になって」でも聞いてみてください。 最初は余計に悲しく聞こえるでしょうけど、少し経つと違って聞こえると思います。 私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています (2020年02月04日 11時05分03秒)
JE2LUZさんへ
妻には、何度も行ってこようと言っていたのですが 自分の親をほっといていけませんしね 妻の母親、弟の面倒見ていたし なんか、妻が可哀想でたまりません 戦時中の女性教員としての苦労も・・・ 私には言えるものではないですね 田舎の様々な風習、しきたり 妻と結婚した当時、お会いするまで 金持ちので悠々自適の 第二の人生をおくっている方と思い込み しかし・・・ 歳が歳だけに、普通大往生かもしれませんが なんの恩返しもできなかったのです 自分でも自分が今おかしいと思っています 先輩が逝く直前に、家に電話 あとからわかったのですが 多くの家に電話して家が最後のような? 事故時間から逆算するとですけどね 妻が30分近く相手 その時、私は新宮市 最後に、私のことを 「〇〇〇ちゃんは煩い、生き方が下手で俺と同じや」 妻に 「〇〇ちゃん(妻のこと)おおきにの」 「〇〇〇ちゃん(私の事)を大事にしてやってくれ」 「〇〇〇ちゃん(妻の事)を〇〇〇〇トンネルを 見に行く約束は果たせなかったの」 そして、電話がきれ逝ってしまいました 最後の日、米汁飲んで、多くの方に電話をしていた先輩 なんか、先輩の気持ちがわかるような気がします 現場検証が終わり、規制が解かれてから 涙をこらえながら、後片付け あの時の自分と、今の自分が同じような感覚です 不思議 先輩のお墓ですが 私の母方の祖父と母の弟が眠る墓地、 それも隣と言ってもいい位の近くに引っ越してきて眠っています (2020年02月05日 07時06分10秒)
お悔やみ申し上げます。奥様をねぎらってあげてくださいね。
(2020年02月05日 19時09分28秒)
灯里☆さんへ
おはようございます 今朝は熊野も寒いです 妻は12月に父を亡くし、 こんどは親子のきずなを結んでいた女性を 人って悲しみが多いものですね 楽しい事があっても ふと辛いことを思い出してしまう 前向きになろうとしても この愛知の大正生まれの女性から受けた 優しさは絶対に忘れることは無いでしょう (2020年02月06日 05時33分09秒) |
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