ドラッカーと左足の靴
企業マネージメントで有名なドラッカーの愛弟子である先生の講義を受けた。ドラッカーの思想の原点には「一人ひとりが位置と役割を持つ自由社会」を実現するということがあるらしい。その文脈から考えると、企業というのはその目的を達成するための手段にすぎず、ゆえにドラッカーは企業管理にのみ注力していたわけではない。事実、ドラッカーは企業の次の担い手として非営利組織を視野にいれ、自治の重要性を説いていたという。これはとても興味深いので、ドラッカーの本にあたってみたい。話は変わるが、面白かったのはドラッカーが博士論文を「ギルドの左足の靴」と言い捨てたというエピソードである。ギルドとは中世ヨーロッパにおいて同業の発展を目的として成立した組合であるが、靴職人のギルドに加入するには左足の靴を完璧に作るというテストがあった。そのテストは非常に難易度が高く、左足の靴を完成させるには相当の労力が必要だったようである。そして、完成した左足の靴は(右の靴がないので)履くこともできず、大切に展示されるとのこと。この「ギルドの左足の靴」を博士論文のたとえに使ったのである。ドラッカー自身は22歳の若さで法学博士を取得しての発言なのでなんとも恐ろしい。ちなみに、ドラッカーは博士論文はすぐに捨ててしまったらしい。。。私は博士号取得の苦労を知らないのでコメントできないが、ドラッカーは非常に現実的で合理主義者であったようだ。私が大学院に入って似たようなことを感じるのは(ずっとスケールは小さいけれど)、単位(修士号)を取るために授業をとるのか?ということである。どんな授業がおすすめかと聞くと、いわゆる楽勝科目をすすめてくれる人がいる。(ありがたい時もあるが)これにはちょっと違和感。高い授業料と時間、加えて働いていれば得られたであろう収入、いわゆる機会費用を考慮すれば、単位のためだけに授業をとるなんてあほらしくなる。学生の中には、早々にこのことに気が付いて大学を中退する人のもいる。ホリエモンとかもおそらくその一人。また話は転じて、成績というものもかなり怪しい。難易度の低い授業を選択すれば成績もよくなりやすく、成績が良いことイコールその人が能力を身に着けたというわけではない。自分の能力を超える授業をヒーヒー言いながら受講して、「C」をもらうほうが楽勝科目の「A」より価値があるともいえる。「試験のために勉強するんじゃないよ。勉強するために試験があるんだよ。」とある先生が言っていたが、成績も同じで勉強しない学生に向けたインセンティブに過ぎないのかもしれない。大学の成績に限らず、評価というものはある種の誘導や足かせとなる場合があるから心得ておかなければいけない。左足の靴と成績のように、人によっては成果物自体にはあまり価値が感じられないものがある。その場合その獲得だけのために力を注ぎすぎるのは真面目かもしれないが、あまり賢いことではない。費やしたのと同じだけのエネルギーを他に注いだほうが効果的である。セルフコントロールができる人は冷静に成果物から得られる対価を考えてみるべきだろう。【送料無料】もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら [ 岩崎...価格:1,680円(税込、送料込)