映画 「ハンナ・アーレント」
自らがユダヤ人であり迫害も経験したハンナ・アーレントは、ナチスドイツを率いたアイヒマンの裁判を傍聴し、彼の中に想像上の凶悪さではなく、凡庸さを見出した。さらにユダヤ人に対する虐殺にユダヤ人自身が加担していたことを公にした。彼女は冷静な視点から、アイヒマンは「想像力と思考力を失った、人間味を喪失した人物」で、だれでも彼のようになりうることを示唆する。アイヒマンは命令に従うという自らの行動が、多くの人々の命を奪うということを「リアル」に感じるとることができなかった。いや、そうしようとしなかったのかもしれない。しかし、彼は最初から思考しなかったわけではない。思考をして是正のために行動することは、自らの命を捧げることと同義であるから、「思考しない」ことで自らの心身を保とうと自己抑制が働いたのかもしれない。これはごくごく普通なことで、アイヒマンは法廷において自らの行動を淡々と語っている。「思考しない」ことを選択しやすかったのには、組織の分業体制も影響しているのではないだろうか。自らの決定がユダヤ人の命を奪うことにつながるとしても、分業体制の下では彼はその川上に参加するにすぎず、人の命を奪うリアルな罪悪感は感じ難い。それを感じるようであれば精神がもたず狂人となるしかないだろう。あれだけの迫害の原因が事務的な凡庸さにあり、「特定の悪が見出せない」ということに決着すれば、ユダヤ人の感情の行き場はなくなってしまう。迫害の大きさに見合うだけの「悪」にその責任を求めようとするのは当事者の自然な感情である。まして、被害者であるはずのユダヤ人にも責任があるなどという「真実」は受け入れられない。あくまでもユダヤ人は迫害された側なのである。ユダヤ人の迫害がまだ歴史となっていないあの時代において、客観的な主張をすることは驚くべきことである。友人を含む周囲を敵に回し、批判や悲しみ、憎しみを導くことになる。当事者ではない私にはアーレントの主張がよく理解できる。客観的で鋭い分析であり、事実を語ることは必要であると思う。しかし、アーレントを含む当事者にとって、真実を語ることが「正しい」ことであるかは結論が異なるだろう。事実、アーレントは冷酷で、アイヒマンの友人であると多くの批判を浴びるのである。アーレントは自身にこのような強い批判が向けられることは、想像ができたはずである。どこから「真実」を語る意欲が湧いてきたのか。映画終盤のアーレントの講義(8分間の主張)はその一端に触れる。圧巻の講義である。・映画「ハンナ・アーレント」オフィシャルサイト