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テーマ:城跡めぐり(1238)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
難攻不落の城と言えば、この上田城は上位に入ってくると思います。
「一体どんな縄張りの城なんだろう」と期待していたのですが、意外と普通の平城でした。 古城図を見ると、あまり堅固な印象はありませんでした。 現在は野球場や陸上競技場なのが並ぶ公園施設となっていますが、二の丸の周囲に巡らされた堀の跡が残っていました。 空堀かと思っていたのですが、水堀だったようです。 しかも昭和42年まで、堀底を電車が走っていました。(何と言うことを…) 本丸の虎口には櫓門が復元されており、その両側には続櫓が建っていました。 本丸東虎口の櫓門と北櫓(復元) 本丸は真田神社の境内となっており、その周囲には水堀が残っています。 真田神社 水堀。 どこにでもありそうな水堀です。 しかしながら、南側の「尼ヶ淵」と呼ばれる方に回ってみると、様相がかなり変わってきました。 切り立った崖に高石垣が巡らされています。 上田城は千曲川の河岸段丘上に築城されており、南側は切岸状になっていました。 尼ヶ淵の石垣(復元)と南櫓 徳川軍を二度も撃退した上田城ですが、ごく普通の平城に見えました。 上田城は1583年に真田昌幸によって築城されました。 武田氏が滅亡した後は、信濃の旧領を巡って徳川家康・北条氏直・上杉景勝の間で、信濃の旧領を巡る争いとなりました。 そんな中、武田氏の家臣であった真田昌幸は、徳川氏についたり北条氏や上杉氏についたりして、乱世を生き延びていました。 一度は北条氏と敵対する徳川家康についていたのですが、徳川・北条の和睦が成立すると、徳川家康は沼田領を北条氏に返還するよう要求してきました。 当然ながら真田昌幸はこれに反発し、1585年に徳川軍との間で第一次上田合戦が勃発しました。 真田昌幸は巧みな用兵と上田城の堅固な城郭でこれを撃退し、徳川軍の戦死者が1,300人であったのに対し、真田軍は40人だったと言われています。 そして1600年の関ヶ原の戦いでは、上田城の真田昌幸と次男信繁(幸村)は石田三成に、沼田城の長男真田信幸は徳川家康方につくという、まさに骨肉の争いとなりました。 そして徳川秀忠軍38,000人が上田城を包囲し、第二次上田合戦となりました。 ここでも真田昌幸は上田城を守り切り、結局徳川秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わずに、家康の激怒を買っています。 (徳川軍は野戦には強いのですが、実は城攻めが苦手なのでは…) 二度も徳川の大軍を撃退した上田城でしたが、その後の徳川幕府の時代になると破却され、真田氏時代の城郭はほとんど残っていません。 1626年に仙石忠政によって再建が始まり、現在建っている櫓や門は仙石氏時代の遺構を復元したものです。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 関連の記事 沼田城→こちら 真田本城→こちら 名胡桃城→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/03/19 09:33:34 AM
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