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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:東海道五十三次
江戸日本橋から数えて東海道7番目の宿場町が平塚宿で、平塚宿付近の旧東海道は東海道線の北側を並行するように通っています。
平塚駅から西に向かって行くと、江戸方見付の跡があり、ここが平塚宿の東側のスタート地点です。 ![]() 江戸方見付の跡 見付跡と言っても碑が建っているだけで、現在となっては東海道も片側二車線の道路に変わっていました。 ![]() 高麗山を正面に見ながら、旧街道らしい長い直線道路が続いています。 旧街道の途中には、街道の名残を示す碑が建っていました。 ![]() 傾けて撮影したのではなく、そもそも碑が傾いています。 ![]() 高札場の跡。 問屋場は東西に二つあったようで、まずは東組問屋場の跡がありました。 ![]() と言っても碑が建っているだけですが… 本陣の跡はと言うと、銀行に変わっていました。 ![]() 地元の銀行であるのがまだ救いでしょうか。 やがて海鼠壁が見えてきたので近寄ってみると、今度は西組問屋場の跡でした。 ![]() 西組問屋場から少し北に外れた所には、「平塚の塚」なるものがあり、とりあえず見に行ってみました。 ![]() 江戸時代に編纂された「新編相模風土記」によると、857年に桓武天皇の孫高見王の娘が、東国への旅の途中でこの地で亡くなったそうです。 墓所として塚が造られたのですが、上が平らだったので「たいらつか」と呼ばれ、平塚の語源となったとのことでした。 どうも胡散臭い話だと思いながら東海道に戻ると、すぐに上方見付跡に到着、平塚宿は終わってしまいました。 ![]() 国道1号線との合流点ですが、こちらも碑が建っているだけでした。 それでも高麗山だけは、往時と変わらない端麗な姿を見せていました。 ![]() 歌川広重「東海道五十三次 平塚」 同じアングルで撮ってみました ![]() 富士山はいずこ… 広重の浮世絵にも描かれている花水橋を渡る時、北の方に目を凝らせば丹沢の山並みが広がっていました。 ![]() つい先日登ったばかりの大山の山容が見えています。 高麗山もずっと近くなり、近くでみるとまるで巨大古墳のような感じです。 ![]() その高麗山の山麓には高来(たかく)神社があります。 ![]() 高来神社は神功皇后の三韓平定に勝利したことをから、武内宿禰が御霊を奉じたことが始まりとされています。 一説には高来神社の高来も「高麗」に由来するとされ、唐・新羅の連合軍に敗れて滅びた高句麗の王族がこの地に移住し、開墾したとも言われています。 いずれにしても717年の神仏習合の時は、行基が千手観音を本地仏と定め、高麗寺の別当なりました。 その後は24の僧坊が建てられるなど伽藍も広がっていったのですが、戦国時代には足利氏の内紛や北条・武田の争いで戦火に巻き込まれ、多くの伽藍を焼失しています。 ![]() 現存する高来神社社殿(元は観音堂) ![]() 神楽殿(現存) 高麗山からは相模湾が一望でき、相模平も含めてハイキングコースになっていますが、機会があったら登ってみたいものです。 高来神社を後にして再び東海道に戻ると、平塚宿の中心地とは違って旧街道らしい趣きがありました。 ![]() これまでずっと東海道をたどって来ましたが、萱葺屋根の旧家に出会うのは初めてです。 最後にようやく旧街道に来た感じがしました。 関連の記事 東海道~藤沢宿→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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