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テーマ:城跡めぐり(1238)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
天神山から兜岩を越えて斜面を下ると、今度は岩殿山へと向かう急な登りに変わっていきました。
天神山から見た岩殿山 岩殿城は岩殿山の山頂に築城された山城ですが、甲州街道に面した南側ではなく、天神山のある西側に大手口があったようです。 大手口の空堀 大手口の登城道 本丸へ向かう登城道との分岐点まできたところで、急に雨が降ってきました。 さすがにここまで来て撤退することもできず、本丸へと続く登城道を登って行きました。 登城道の途中には、岩盤を削ったと思われる切岸がいくつもありました。 房総の里見氏はこういう築城をするのですが、武田氏の築城では意外な感じがします。 さらには両側から切岸の岩が迫っている場所がありました。 揚城戸跡 その名の通り、揚げ下ろしのための門があったところです。 さらに先へ進むと、土塁や曲輪がいくつかあり、山頂部はかなり有効に利用されていたような印象があります。 番所跡 馬屋跡 さすがは甲州ですが、どうやって馬を上げたのでしょうか。 さらには土塁があり、土塁上の一段高くなった場所に物見台の曲輪が広がっていました。 物見台の土塁 さすがは物見台で、ここからは眼下に甲州街道を見下ろすことができました。 猿橋方面 大月方面 それにしても、このタイミングで本降りです。 物見台のさらに奥には独立したピークがあり、本丸はこちらにあるようです。 本丸に向かう途中にもいくつか曲輪の跡が連なっていました。 馬場跡 やっぱりどうやってここまで馬を連れて来たのか不思議です。 蔵屋敷跡 本丸は標高634mの岩殿山山頂にあり、奇しくも完成後の東京スカイツリーと同じ高さにあります。 本丸には烽火台もあったようですが、現在はテレビや無線の中継として使われていました。 岩殿山に行くには、南側の中腹にある丸山公園から登るのが一般的です。 丸山公園も何らかの形で城跡の一部を成していたと思うのですが、現在は中世風の「ふれあい館」が建っていました。 模擬天守を建てないだけまだマシですが、小山田氏の戦国時代にこのような建物があったかどうかは不明です。 武田信玄は甲州に城を築城しなかったため、岩殿城は数少ない山梨県の戦国山城です。 それでも岩殿城は北条氏の相模国の国境付近にあり、武田氏にとっては甲州の中でも重要な拠点だったと思われます。 猿橋側から見た岩殿城の遠景 岩山をそのまま城郭にしたような感じで、むき出しの鏡岩が圧巻です。 岩殿城のあった場所は、元々9世紀に円通寺の境内として開かれたと言われています。 戦国時代の1530年代に、武田氏の家臣である小山田氏によって築城されました。 1582年に武田勝頼が甲州に攻め込むと、武田勝頼は本拠地の新府城から、岩殿城の小山田信茂のもとへと逃れようとしました。 しかしながら小山田信茂が織田方へ寝返ったため、武田勝頼は岩殿城に入ることが出来ず、天目山で自刃しています。 武田勝頼にしてみれば、甲斐国内で一族を連れて逃れるならば、この要害上にある岩殿城しかなかったことでしょう。 小山田信茂にしてみれば、武田勝頼を岩殿城に引き入れてしまうことで、西から織田信長、東から北条氏政の挟撃を一気に受け、さすがに堅固な城郭ももたないとの判断だったかも知れません。 関連の記事 岩殿山(その1) 稚児落とし~兜岩→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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