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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(愛知編)
東海道池鯉鮒宿の本陣から少し京都寄りに行った場所、旧街道がかぎ型に曲がる先に知立城跡があります。
現在は公園となっており、城址碑が建っているだけで、城郭の遺構は全く残っていませんでした。 さもありなん。 知立城は、知立神社の神主であった永見氏の居館でした。 平安時代末期には北面の武士として、13代永見貞春の時には保元・平治の乱に従軍した記録があり、以後29代永見貞英まで続いた家系です。 桶狭間の戦いの時に知立城は落城しましたが、それまでは中世の武家居館と同じく、方形の一重堀で囲まれていたのかも知れません。 天正年間(1573年~1593年)には、刈谷城主水野忠重(徳川家康の生母である於大の方の弟)が、織田信長を饗応するために約3,000坪の土地を整備しました。 江戸時代に入った寛永年間(1624年~1643年)には、将軍上洛用に御殿の増築が行われました。 城址にあった古絵図を見ると、江戸時代の御殿の様子が描かれていました。 絵図を見る限りでは、周囲を塗籠の土塀で囲み、背後には空堀が巡らされていたようです。 さらに知立城の向こうには知立神社が描かれており、多宝塔が建っているのがわかります。 知立神社の多宝塔 ローカルな城郭でありながら、将軍のための御殿が建てられるなど、相応のステイタスがあったようです。 しかしながら1699年の地震によって、御殿そのものも倒壊してしまいました。 関連の記事 東海道~池鯉鮒宿→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 11:56:54 AM
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