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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
山口県下関市と北九州市門司区を隔てる関門海峡は、大阪・神戸などの瀬戸内海方面と中国大陸・朝鮮半島を結ぶ国際航路となっており、小型漁船から大型タンカーやコンテナ船まで、あらゆる船が行き交う海峡でもあります。
空荷ではありますが、ちょうどコンテナ船が通過して行きました。 関門海峡には電光掲示の信号があり、排水量1万トン以上の大型船(または3千トン以上のタンカー)が通過するときは、「H」(東航路)または「T」(西航路)の信号で周囲の船舶に注意を促しています。 次々と大型船が通過して行く中、釣り船が海峡上で停泊していたりして、常に汽笛が鳴り響いていました。 関門海峡の幅は700mほどしかなく、昔から「早鞆の瀬戸」と呼ばれる潮流の変化の激しい場所でもあります。 周防灘(瀬戸内海)と玄界灘(東シナ海)の潮位の変化により、潮流がよく変わることでも知られています。 (東京湾の浦賀水道どころの話ではないかも知れません) 潮流も電光掲示の信号があり、「W」(西からの流れ)・「E」(東からの流れ)があり、数字で潮流の速さ(ノット)と、「↑」・「↓」で潮流の速さの予測が示されていました。 前置きは長くなりましたが、約800年前にはこの潮流の変化がまさに歴史の潮目となりました。 1185年の壇ノ浦の戦い、平氏の貴族政権から源氏の武家政権へと時代が変わり、政治の中心も鎌倉に移る潮目となりました。 源氏の攻勢の前に西へ西へと追いやられた平氏は、関門海峡の彦島でまさに背水の陣を敷いていました。 平氏の総大将は平知盛、一方の源氏の総大将は源義経です。 最初は西からの潮流と水軍に長けた平氏が優勢でしたが、東からの潮の流れに変わると、形勢は一変して源氏有利となりました。 義経の八艘飛びの「伝説」や、安徳天皇の入水などにより、壇ノ浦の戦いは源氏の勝利のうちに終わっています。 壇ノ浦のみもすがわ(御裳川)公園にある平氏総大将の平知盛像 入水した後に浮かび上がることを屈辱として、錨と共に海に沈んだと言われています。 源氏の総大将源義経像 梶原景時が先陣を申し出た時、義経は自ら先陣になることを言ったそうです。 総大将の先陣など将の器ではない、とこれがきっかけに梶原景時の不信感を生み、源頼朝への讒言につながったと言われています。 (世に「判官びいき」とは言うものの、個人的には義経は猪武者だと思っているのですが…) とにかく、源義経の総大将の下、壇ノ浦の戦いは源氏の勝利に終わり、平氏から源氏へと時代も変わっていきました。 関連の記事 赤間神宮→こちら 朝日新聞社・吉川英治新・平家物語 揃 【中古】afb お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/02/19 08:00:36 PM
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