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カテゴリ:出来事
来年5月に始まる裁判員制度。最近、この話題を目にすることも
増えてきた。忙しい身に、5日間なり拘束されるのは正直しんどい なぁと、漠然と思っているだけで実感が伴っていなかった。過去 形なのには理由があって、実は昨日、お客様である弁護士の 法律事務所主催の「友の会」が開催され、毛利甚八氏の講演を 聞きに行ってきたのだ。なるほど、この制度にはこんな側面が あったのかと、少し見識を深めたのだった。 毛利甚八氏は作家であり、私とほぼ同年代である。(彼は2歳年上。) とはいえ、拝見したところ、白髪が多くて、写真の彼よりもっと年長 に見えた。彼とは通っていた大学は違うのだが、東京練馬の江古田 駅を利用する大学同士であり、駅の北と南に分かれながらも、どこか ですれ違っていたのかもしれない。彼の名前を知らない人も、マンガ 「家栽の人」の原作者と言えば、「あっ、植物好きの家庭裁判所の 桑田判事が主人公の?」と分かる人もいるだろう。 家栽の人(1) もともと司法にまったく縁がなかった彼が、「家栽の人」を通じて 深く、長く関わることになった。冤罪事件の現場をルポしたり、今 でも、作家の傍ら、大分県の中津少年院でウクレレを教えるなどの 活動を続けている。そして、声高に主張するでもなく、派手に着飾る でもない、「素」の彼による裁判員制度の意義を聞くと、なるほどと 思ってしまった。 彼はこの裁判員制度を、「軽自動車にポルシェのブレーキ」を付けた 制度と言った。一般市民である裁判員6人と、裁判官3人の計9人で 進める制度だが、もし裁判員が前例を無視し、感情にまかせて暴走 すれば、裁判官がNOを出せる制度である。つまり、素人が量刑を 裁量する不利益は生じないようになっているわけだ。でも、それでは 裁判員が加わる意味がないのではないか?と思わったが、実は 意味がある。 冤罪事件として、鹿児島の志布志事件などを紹介してくれたが、 まったくひどいものだ。検事が起訴すると、99%は有罪になって しまうのが現実だという。戦後の流れがそのまま流れているような ところもあり、司法制度の問題点をいくつか紹介してくれた。 例えば、裁判官は検事と弁護士、両者と対等な距離関係であるべき なのだが、実際は検事寄りであるという。仮に検事が起訴して無罪 になると、検察から最高裁へ圧力がかかるそうだ。その結果、その 裁判官の次の赴任地が左右されるようなこともある。誇張して、 おもしろおかしく話してくれたのかもしれないが、案外、ありえない 話ではない。(いや、裁かれる立場になれば、決して笑えない話だ。) この裁判員制度は、決して完成されたものではない。まず導入され、 今後の手直しが必要だ。それを前提に、裁判員となることがあれば 是非、裁判官が検察官をどれだけ怖がっているかを見てくる。検察 の出してくる証拠が納得できるものなのかを、一般市民の立場で 吟味し、冤罪事件を失くすためには有効な制度である。司法の闇から 情報が公開されると考えれば、導入されたことには大きな意味があり そうだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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