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カテゴリ:真田丸
■豊臣秀次が宇喜多秀家に学ばなければならなかったのは、能の作法などではなく、彼のポジティブ・シンキングに他ならない。人が自分の事をどう思っているのかを考えるより先に、自分が何をしなければならないのかを考えられる人になること。まるで松岡修造のような宇喜多の熱(くるし)さをほんの少しでも受け継いでいたならば、あれほどの疑心暗鬼なメンタルにはならなかったのに。
■コメディ要素が前2回に比べれば少なかった今回だけど、この能舞台での信繁の音痴ぶり(前回の草刈正雄の美声とは大違い)とまるでみすず学苑の広告のような秀家と秀次の仮装ぶりに笑う。宇喜多スクールでの基本レッスンでの摺り足歩行がマイケル・ジャクソンの「スリラー」風でまたちょっと吹いた。 ■不信3態。その1は秀吉と秀次。彼ら二人が標準語ではなく、ニャーニャー言いながら、本音を言い合える場面があったなら、あんなすれ違いは起きなかったのかもしれない。太閤は関白が憎くてあんな仕打ちをしているのではないと見ている誰もがわかっているのに。 ■その2は信幸と信繁。自分に官位が与えられたのは弟のおこぼれかと、疑ってしまう兄。こうすれば丸く収まるだろうと、策をめぐらす側から外された者が、その成り立ちを知ってしまう時、たしかにそういう抜け目のない奴に対する怒りというか苛立ちは生まれるだろうな。それが肉親であれば尚のことだ。それを頼朝と義経に例える信繁の神経も疑わしい。 ■その3は豊臣家から小早川家へ追放された秀秋の秀吉に対する不信感。大河史上こんなに肖像画に似ている役者はいないと思われる浅利陽介がこの先、関ケ原でどんな行動をとるのか。前回今回とじっと上目遣いで周りの様子を見ている彼の心の内を視聴者もきっと見ているわけで。浅利君、今回は小林隆とのからみは今のところないが、これからきっと何かしら関わりができるとふんでいる。 ■今回の能舞台のNOと次回の秀次が手に取るイエスの肖像画のYESがあらかじめ計算された対比ととらえるのは都合が良すぎるか。またNOといえば、主人にしたがって京に行くことを拒んだ稲も否という字を当てれば腑に落ちる。そして秀吉があらたに誕生した息子につけた名が拾というのも早世した前の息子が捨だったことを思うと反意語の嵐だ。 PS ■NHKアーカイブに小日向さんが出演していた。大河ドラマにおいて秀吉を演じた役者はこれまでに15人いるそうだ。そのうち2作品で演じたのは緒形拳と竹中直人。番組では「太閤記」の第42回「本能寺」がノーカットで放映されたが、白黒画面の緊張感が素晴らしかった。吉田ディレクターという名監督の手腕に感服。全然古臭くない。(でも、私、リアルタイムでこれ見てます!)緒形秀吉といえば彼が2度目に太閤を演じた「黄金の日日」の松本幸四郎が次回登場。秀次ロスを打ち消すようなこのタイミングの登場もまた抜け目がないと言えば抜け目がないよな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016/07/11 12:48:36 AM
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