カテゴリ:リョウの備忘録
●昭和39年の東京五輪を翌年に控え、東海道に新幹線や高速道路が急
ピッチで造られつつあったあの頃、17才の少年が茨城から上京した。 少年の名は野澤司郎。 「手品師になりたい」と都内のマジックスクールで学び、20才にして 晴れてプロのマジシャンになった。 今でこそ華やかな人気職種だが、当時 "奇術師"と言われたこの職業を 目指す若者は全国でも珍しかった。 ●野澤少年は、子どものころ知恵の輪が大好きだった。 中耳炎を直すために毎日病院へ通わなくてはならないのに、こっそり 一日置きにしてお金を貯め、ついに知恵の輪を買った。 だが、それが母親にみつかった。 クラスの中でも飛び抜けて貧しい家庭だったし、厳しい母なので、知 恵の輪を取り上げられ、おもちゃ屋に返されるものと少年は思った。 だが、このとき、母は何もいわなかった。 「もしあの時、母に知恵の輪を取り上げられていたら今の僕はなかっ たでしょうね。僕が真剣に好きなものを母は分かってくれたのだと思 います」 ●上京5年目、22才のとき手品師 マギー信沢を師事した。みずからも 芸名をマギー司郎に変えた。13年後輩の兄弟弟子にマギー瑠美がいる。 きちんとした仕事がなく、ストリップ小屋で一日4回も幕つなぎのマ ジックをやった。結局この幕つなぎの仕事は15年も続いた。 ●プロと名乗るマジシャンでも経済的に食べていける人などごく少数 に過ぎない。司郎がストリップ小屋に立っていた頃から40年を経た今 でも、サラリーマンと同じ生活レベルを保てているプロマジシャンは 一割に満たないという。 ●「どうせ食べられないのなら、みんなと同じことをする必要はない よな。だったら、ちょっとチャレンジしてみようか」と今までの芸風 を壊し始めたら生活の方も人並みになってきた。 ●いまでは「マギー一門」としてたくさんの弟子を抱えている。弟子 のなかでも出世頭となったマギー審司(昭和48年 気仙沼生れ、平成6 年マギー司郎を師事)も億単位で稼ぐ芸人に育ってくれた。 だが、師匠のマギー司郎が弟子の審司を高く評価しているのは、立派 に稼げるようになったからではない。 今でも昔と変わらず、自分の荷物を自分で担いで持って歩いているか ら立派だ、とみているのだ。大切なのは人柄なのだ。 稼げるようになると急に周りに荷物を持たせるなどして、上からの目 線になる。やがてそれが芸風に表れる。司郎はそれを嫌うのだ。 ●そのマギー司郎が平成16年に出演したNHK『課外授業ようこそ先輩』 が第31回日本賞教育番組国際コンクール最優秀番組東京都知事賞を受 賞した。 マギー自身が、自分の手品の上手さを観客にアピールするのをやめて、 自分の弱点(氏曰わく、手品のヘタさ)をさらけだすことでうまく行 った。それを子供達に教えようというのだ。 ●番組の中でマギーは小学校の教室で子供達の前にたち、「ふだん内 緒にしている自分の欠点をあえて表にだし、自分をさらけだしてから 手品をやろう」と提案した。 ●子供達は最初、あきらかにとまどっていた。だが、時間をかけ、勇 気をもって心を開いていく子供達。 「家と学校では態度が違うということ」「嫌なことがあるとすぐに人 に八つ当たりをしてしまうということ」「実は勉強も運動も出来ない ということ」「手先が不器用であるということ」 などなど、コンプレックスを告白する。 ●隠していた本当の自分をみんなの前で見せて、そしてマジックをす る姿にはちょっとした感動すら覚えた。 そして全員が見事なワザを披露し終えたあとの、あのクラスの一体感。 最後にマギーが締める。 「辛い事、苦しい事がこれからあるだろう。だけど、今日、頑張って やったマジックの成功感を忘れないで欲しい。このことを思い出して 乗り越えて欲しい」と語りながら、マギー自身もこみあげてくるもの をこらえていた。子供達も目頭をおさえていた。 …………………………………………………………………………………………… 必見!消化酵素 サラリーマン・OLのための病気にならない生き方 …………………………………………………………………………………………… 必見!頭のいい人悪い人のサイドビジネス 「紹介者名:神立リョウ、ピン1417002」とご記入ください。 …………………………………………………………………………………………… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.04.15 08:41:28
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