総合学習ってこんなこと
メルマガを読んでいたら、こんな記事が…GEの元会長、ジャックウエルチ氏は、「警察・学校・メディアの三つの管理機関を掌握することが革命成功のカギ」。ジャック・ウエルチがそんなことを言っていたんですね。メディアの操作、これは日頃強く感じます。ゴシップを追いかけてくだらないという、メディアの堕落論はよく聞きますが、メディアが操作されていることを言う人は少ないですネ。あまり意識されていないのかもしれないですね。例えば、企業戦略としてはメディアを広告の媒体として使いますが同じように、メディアは政治にも、官僚にも利用されています。例えば、有識者の意見というのは、かなり怪しいものが混じりますしそうでない報道でも、報道の意図や背景を考えると、その裏が透けて見えてきます。つまり、メディア自身がそれをどれほど意識しているか不明ですが、意図的な報道になっているのです。歴史的に見ても、人気のある政治家はメディア操作がうまいことがあげられます。そうじゃないと、政治家としては勤まらないとも言えます。学校もそうです。最近、これも強く感じます。時代からズレているところを注視すると、学校の全体像が見えてきます。今の日本の学校は、明治期に定まった「富国強兵」、「近代市民」あるいは「国民」路線をそのまま踏襲した「国民教育」を続けています。モチロン、これは日本だけでなく、形は違いますが、米国などでもそうです。学校では、私の子供時代ほどはありませんが、兵隊のような重いランドセルを使い、集団の規律を重視することを、今でも重要視しています。幼稚園から、小学校に移ったときに、雰囲気が違うのに愕然としませんでしたか?義務教育である小学校では、子供たちに国民教育をしているのです。子供の自主性や創造性を延ばそうとしている幼児教育とは次元が違うのです。小学校では、基本的な読解力や計算力と集団行動を学ばせるのですが、これは優秀な「国民」を作ることに価値を見出したところから始まっています。近代戦には、集団行動を能率的にこなし、武器を操作し、軍事行動を文書で理解できる多量の優秀な国民が必要で、それが戦いの趨勢を決めたのです。そういう時代を日本も通り抜けてきて、敗戦は経験したが、結局生き残ったのですから、過去においてはムダではなかったと言えます。今はどうか知りませんが、私が小学校に行っていた昭和40年頃は、運動会では行進の仕方に時間をかけて何回もやっていましたし、回れ右などの号令でいっせいに方向を変えることなど、それらをきちんとやることをとても重要視していたように思います。小学校の校長や教頭職の先生から、何回も、美しい集団行動の素晴しさについて「おはなし」を受けていたことを思い出します。これは兵隊になったときに、違和感なくすぐに兵隊行動をとれるように子供のうちから教育しておくことを主眼としていました。戦後は表現や言い回しを変えていますが、やっていることは同じです。小さい頃からお稽古事をすると、達人になるというのは、明治期以降の教育者たちも、そう考えていたのです。また義務教育では、基本的には金儲けの話は一切出てきません。それは、国民教育には不要な情報だからです。国民は貧しいほうが清く戦います。個人としての欲を忘れて…。「国民」とは、もともと国に奉仕する機能集団を意味している言葉です。集団での役割を果たすことに個人の存在価値を置いていて、他方、経済的利潤動機を否定しています。総合教育は、この歴史を変える試みだと思いますが、長年の教育の厚みで、従来の国民教育ならできるが、総合教育は理解できないし、教えられないというのが教育現場の姿のようです。総合教育を推進できる先生が存在していない…。現実世界を扱い、子供の数だけ正解が出てくる…。そのような「正解」を出すメソッドや、情報処理能力をつけさせる、それが、総合教育の究極の姿ではないかと、私は思っています。