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教育の話を続けます.
「ゆとり教育」は間違っていたのだ.脱「ゆとり」が成功したからこそ,PISAの成績が向上した. 朝日新聞12月8日の提灯持ち記事は,そういう内容だったわけですが... 「ゆとり教育」のピンボケぶりは当初より明らかだった.きっちり教えるべき事を教えないで,落ちこぼれ対策もヘッタクレもあったものではない.それが失敗だったと言って,今度は尻を引っぱたいて勉強させようというのが,脱「ゆとり」の考え方である.それで良いのだろうか? もう少し掘り下げて考える必要があるのでないか. 日本の学校教育が抱える最大の問題は,文科省が仕切り過ぎることにある,と私は思う.「ゆとり」と言えば日本全国が一斉にそうなる.今度は脱「ゆとり」となれば,また一斉にそちらを向く. 具体的には知らないが,文科省の号令一下,皆が同じ行動をとるという仕組みができあがっているらしい.これは学校教育の全体が「試験」を中心に組まれていることとも関係している.教科書に書かれていたら試験に出るかもしれないので,教科書には必要以上のことを書けない.文科省が「円周率は3だ」と言ったら,全国一律に3になってしまう. あまり指示ばかり,命令ばかりでやっていると,指示される側は「指示待ち人間」になる.つまり自分の頭で考えることを止めてしまう.そういうシステムのもとで,生徒に「考える力」をつけさせたいというのは,なかなか無理があるようにも思う. 教育を考えるとき忘れてならないキーワードの1つに「自主性」がある.自発性,主体性,と言っても良い.生徒が自主的に何かをすること.そう仕向けるにはどうすれば良いかを考えることだ.規則と強制(成績評価)で尻をひっぱたいて勉強させるなどというのは最低最悪の教育方法である. ところが残念なことに日本では,自主性の尊重は非常に軽く見られている.学校教育だけでなく,さまざまな場面でそれが見られる.日本の多くの制度が,自主性を殺す仕組みになっている. 例をあげてみよう. クルマを運転していると,「一旦停止」という標識に出会う.交通事情の如何にかかわらず一旦停止である.たとえば英国には,軍による検問などは例外として,「一旦停止」を求める標識はない.道を譲れ(give way)という標識があるだけだ.他のクルマがいれば減速なり停止なりして道を譲ればよい.必要な規制はするが,必要以上の規制はしない.合理的なルールである. 停止すべきかどうかはドライバーが判断する.日本式の場合は停止は絶対命令だから,ドライバーが自主的に判断する余地はない. 別の例をあげる. 昔,日本経済が羽振りが良かった頃,「日本人は働きすぎだ」と米国に言われたらしい.そこで日本政府は休日をたくさん作った.全国一斉に休むのだから,行楽ラッシュや帰省ラッシュで渋滞が起こる. 欧米では休みは自主的にとるものだ.自分の都合に合わせて自分の判断で休暇をとる.これに対し日本人は,「いつ休むか」を自分で決めない.すべて政府が決めた通り,お仕着せの休日である.ここでも自主的な判断は無用である. このように日本人はさまざまな場面で,自分の頭で判断する機会を奪われている.国のシステム全体がそのように作られている.また国民は,自主性を抑制するようなルールが作られ実施されることに対し,警戒心が極めて薄い. こういう一般的なバックグラウンドがある中で,教育もまた「自主性の尊重」を置き去りにしてきたのでないだろうか.この状況を改善する最良の方法は,まず教育が「自主性の尊重」を実行することだろう.その空気の中で育った子供が,やがて成人して社会を支えるようになったとき,日本はもっと自由で人間的な社会に変貌できるのでないだろうか. 以上のように,日本の学校教育は「強制」を柱に構築されていて,その傾向が最近ますます強まっている.この対極にあるのが博物館である.つまり博物館においては,強制や成績でなく,個人の自主性が主要なモチベーションとなる.そういう自主的な勉強を支援する機関として,博物館に期待される役割は大きい. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 24, 2010 11:36:47 AM
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