カテゴリ:カテゴリ未分類
今回も語学教育の話.前回の補足です.
英語を話したり聴くだけではダメで,読み書きもできなければダメだ,という意見もあると思う.「話す,聴く」ことと「読む,書く」ことは相補うものである.特に英語を母語としない人には,ある程度の読み書き能力は,その言語を習得するうえで有用である.たとえば l と r の音の違いなどは,「耳からの英語」だけでは日本人にはまず習得不可能ではないだろうか. だから幼児に英語教育を施して「英語脳」をつくらねばならないという人もいる.この意見には賛成できない.人は言葉によって思考する.だから,まず1つの言語を身につけることを最重視すべきである.しっかり「日本語脳」になってもらわねばならない.外国語の習得は,それ以後のオプションとなる. 話をもとへ. 実際の日常会話で,l と r の違いが問題になることは稀であろう.日本人や中国人は l と r を区別しないという事実は,海外でもある程度知られているし,「日本人の英語」の1つのクセとして宣伝しておけば良い. いい加減な教育はダメだ.基礎からしっかり確実に教えねばならない,という意見は当然あると思う.しかし,まず話せるようにすること.そして「話す」実践の中で,次第に磨きをかけて行く,という方法論が,それほど的外れとも思えない.失敗をとがめないこと.たくさんの失敗を犯すことが,すなわち学習の一環なのだ. しっかりした文法とか「長文読解力」などは,会話を一定習得してから,もっと後になって発展的課題として教えれば良い.読み書き能力は有用だけど必須ではない. 人はいろいろな仕方で,知識や能力を身につける.たとえば理科教育では,机の前に座ってする「勉強」だけでなく,実験や観察が重視される.理科だけではない.デスクワークだけで事足りるような勉強はむしろ例外であり,そういう「勉強」ばかりを重視することは,教育に大きな歪みをもたらす. ところで, 音楽は音を楽しむものである.音楽であって「音学」や「音が苦」ではない,とはよく言われることだ.もちろん「音学」や「音が苦」はあっても良い.バッハの平均律などは「音学」がなければ生まれなかっただろう.旧ソ連のヴィルトゥオーゾたちは,それこそ血のにじむような訓練の積み重ね,文字通りの「音が苦」を経験しているだろう.けれども結局のところ音楽は音「楽」であることに意義がある. 外国語の学習は,学校の授業で言えば「音楽」や「体育」に似た面がある.理論が不要とは言わないが,実践が大切になる.そういう意味では,外国語は語学である以前に語「楽」であった方が良い.楽しければ人は進んで実践するし,実践を重ねることで,いつの間にか上達する.何度も書くけれど,語「学」はもっと後のため取っておけば良い. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 16, 2011 10:44:53 PM
コメント(0) | コメントを書く |
|