鶴舞う形の・・・
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二番目に教えたのは近所の建売住宅に住む中学三年生の受験生だった。バイト代は、やはり週に二回2時間の家庭教師で15,000円だったと思う。こちらのバイトは、親父が知人から頼まれたものだったが生徒は大人しくて教え甲斐のない子だった。受験が終わるまで一年間教えたが何処へ進学したのかも忘れた。
2012.01.03
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アルバイトで教えていた受験生は「伊勢崎東高校」志望だった。何故か両親とは別居で伊勢崎の祖母の家で勉強していた。ここのおばあちゃんがよく「サッポロ一番みそラーメン」を作ってくれた。
2012.01.02
初めての家庭教師のアルバイトは通学途中の地域に住む中学三年生の受験生だった。バイト代は週に二回2時間の家庭教師で15,000円だったと思う。教え子の受験生は自分からやる気のある子でとても教え易かった。自ら問題集を解いて解らない所を訊いてくるのだが「問題集を解いている間はマンガ本でも読んでいて下さい」と言われて私はその言葉に甘んじた。
2012.01.01
高校時代は全くアルバイトをした事が無かったが大学へ入ってからはクルマのガソリン代や維持費でお金が必要だった。私は教務課へ行って家庭教師のアルバイトを探した。
2011.12.31
自動車部では毎月部費を納めなくてはならなかったが新入部員と言うことで暫く部費を免除されていた。私は部費を払うよりも自分のクルマの維持費に掛けたくて仮入部の段階で自動車部を辞めてしまった。
2011.12.30
当時、赤城山へ行くとあちこちにダートコースがあった。林道の片側は山、反対側は杉の木の生えた崖だった。「一度はここから落ちるんだよな~」とドライバーは言っていたが新入部員には、ドライバー役は回ってこなかった。
2011.12.29
ある夜、ラリーの練習をした。梅田からスタートして赤城ロマンド辺りのオフロードコースだったが手動のナビは最初に「オドメーターチェック」が必要で今考えると、時代遅れも甚だしいものだった。ロールバーに頭をぶつけない様にヘルメットを被り後ろの席の足元にはゲロ用のバケツを用意しておいた。
2011.12.28
次に練習したのが「ラリー競技」だった。ロールバーの付いた「ブルーバード510」に四人乗りして助手席は地図を読むナビゲーター。後ろの席は手動のトリップメーターでナビゲーター。やはり新入部員にはドライバー役は回ってこなかった。
2011.12.27
自動車部に入部して最初に教えて貰ったのは「フィギュア競技」だった。「真四角のコースを据え切りをしないで横移動する競技」と「車幅ギリギリのくの字のコースを進む競技」の2種類の競技を教わったが新入部員には出番は回ってこなかった。
2011.12.26
大学の自動車部では機械科の学生が殆どだった。クルマはブルーバードの510が2台あって1台はナンバー無しの「フィギュア用」だった。
2011.12.25
A沢君だったかT渕君だったか忘れたが試合の後で「東郷さん、昔ほどキレが無くなりましたね」と言われた事があった。私自身も高校ラグビーと大学ラグビーの違いを痛感していた頃でI崎君に誘われた事もありラグビー部を辞めて自動車部へ転籍した。
2011.12.24
遠征試合の翌日、「大阪城」を見てから帰ると言う先輩達も居たが当時、私は「お城」に興味が無かったし迷子にでもなったら一人では帰れそうにないので何処へも寄らずに真っ直ぐ帰ってきた。
2011.12.23
招待試合の時の宿舎は「ダスキン」の社員寮だった。社会人の寮は学生寮とは違って綺麗に整理清掃されていた。夜の慰労会でOBから「試合は負けてしまったが母校の試合が見られて嬉しかった」と言う労いの言葉を聞いた時はOBと言うのも良いものだと感動した。この時の夕食で「しゃぶしゃぶ」と言う物を初めて食べた。
2011.12.22
「大阪大学」だか「関西大学」との試合は折角呼んでくれたOBの見ている前で負けてしまった。呼んでくれたOBの恩に報いるために出たかったが補欠の私に出番は無かった。この時、中学駅伝の時の補欠だった時に似た「虚しさ」を感じた。
2011.12.21
大学のラグビー部の関西地区に居るOBに請われて遠征試合をした事があった。この頃、私は既に部活をサボり始めていたのだが、何故か補欠として参加させて貰えた。「大阪大学」だか「関西大学」だか忘れたが関西方面へ行くのは修学旅行以来だった。大学のキャンパスで「アメフト部」と言うのを初めて見た。
2011.12.20
大学の時のラグビー合宿に社会人の先輩が来てくれた事があった。痩せて背の高い軟弱そうな人だったので簡単にタックルで倒すことが出来たが倒れながらボールを味方がフォローし易いように体の向きを変えてボールを活かしたのは流石だった。
2011.12.19
高校の時にT高校と合同で夏合宿をした事があった。ランパスの時になるとT高校の部員は何人も足が痙攣してリタイヤしていたのでランパスが少し楽になったがラインアウトとセービングのテクニックは見習うべきものがあった。
2011.12.18
コメント(2)
大学の時に指導に来てくれたM氏はその後、レフェリーをしているのをTVでしばしば観るようになったが最近では「ラグビーワールドカップ」の記事で見かけるようになった。
2011.12.04
夏休み中の練習時に「レフェリーのM氏」が指導に来た事があった。夏休みはアルバイトに興じていた私も有名人が来ると言うので練習に参加したが私の練習姿を見たM氏に「君は理想的なラグビー体型だがもっと練習しないと駄目だね」と駄目出しされた。確かに練習に参加するのは久しぶりだった。
2011.12.03
名前は忘れたがT高校から入部して来たスタンドオフは新人類と言う感じだった。合宿中に自分の恋愛体験や性体験を自慢したり今に言う「チャラ男」と言う感じだったが女子マネージャーまで入部させた時は驚いた。
2011.12.02
工学部に入学してきたプロップのT渕君は見るからにプロップといった体型でラックやモールでは猪突猛進と言った感じだった。とてもラグビーを愛していたようだ。
2011.12.01
コメント(1)
教育学部に入学してきたロックのA沢君は長身で身体能力も優れていた。私達のチームが高校三年の時に強かったのはA沢君達のフォワードが居たからかも知れない。
2011.11.30
ラグビー部も二年目になると高校の時の後輩が入部してきた。同じ高校からは長身ロックのA沢、プロップのT渕。他にT高校からもスタンドオフの経験者。
2011.11.29
合宿も終盤になった夜、I崎君が「レポートを自宅まで取りに行って来たい」と言い出した。夜中に自宅のある桐生まで往復すると言うので私もCOドライバーとして付き合うことにしたが当時は、ナビなどなく赤城山の北面を通る「根利コース」も落石だらけで通れないと言う事だったので17号~50号経由でとんぼ返りしたのが懐かしい。
2011.11.26
合宿も何日目かになると部員の疲れもピークに達した。合宿所からグラウンドまでクルマで移動するのに部員同士のちょっとした接触事故が続発したが「御免ね~」「いいよ~」と医学部のラグビー部員達は大らかなものだった。「人は疲れると集中力が無くなる」
2011.11.25
合宿所としていた民宿にはどこぞの「テニスサークル」も一緒だった。初日にその「テニスサークル」のキャプテンらしき男子学生が「私達は女性が一緒なので風呂は先に使わせて欲しい」と言って来た時は、当然そうするべきだと考えていたけれどその態度にちょっとムカついた。
2011.11.24
武尊山で夏合宿をした事があった。私は、それまで「武尊山」を知らなかったし読めなかった。
2011.11.23
合宿の最後の夜は「打ち上げ」と称して酒を飲む事が多かった。私はビールを一杯飲んだだけで翌朝、蕁麻疹が出てしまい試合に出る事が出来なくなってしまった。それ以来、私は「打ち上げ」で酒を飲むのは辞めた。
2011.11.22
大学のキャンパスで夏合宿をした事があった。朝のキャプテンの「起床!」の掛け声を聞くのが辛かった。寝苦しい夜に合宿所の屋根で寝ていた部員も居たが私には怖くて屋根で寝る事は出来なかった。
2011.11.21
何故だか分からないが毎年、東工大と親善試合があった。今考えてもどうやって東工大まで行ったのか記憶に無い。
2011.11.20
新潟大学へ遠征試合に行った時に新潟市の国道が4車線だったのと矢印の出ている信号機が多いのに驚いた。当時、前橋市には4車線道路は無かったし矢印の付いている信号機も珍しかった。海に停泊している大型船を見て「井上陽水」の歌を思い浮かべた。
2011.11.19
同級生でもう一人忘れてはいけない人が居た。岩手大学へ受験に行った時に伊勢崎東高校のラグビー部員と一緒の宿になり試合の話で盛り上がった事があったがフランカーのT野君は、その時の一人だった。サニー110のセダンに乗っていたのが印象的だった。
2011.11.18
当時は、殆どの部員が「ウシトラ」と言うメーカーの安いスパイクを履いていた。ある日、K藤さんが履いてきた「ミズノのスパイク」は軽くてカラフルで高そうだった。
2011.11.17
フルバックのKさんのライン参加の時のスピードはなかなかのものがあったので成功率も高かった。よく「大田原訛り」で自慢していた。
2011.11.16
フルバックのK藤さんは、工学部だったので遠征試合の時とかは一緒に電車で行動する事が多かった。ある時は、駅のホームを走らされた事もあった。
2011.11.15
フッカーのF木さんに会った時に「眼瞼下垂」と言う言葉を初めて知った。
2011.11.14
プロップのY野さんは、いかにもプロップですと言う体型だったが体力は無く節制も出来ない人だった。夏合宿の夜に一人部屋でお菓子を食べているのを見た時と試合の時にタックルした相手に弾き飛ばされて後ろに転倒したのを見た時は思わず苦笑してしまった。果たして、まともな教師に成れたのだろうか?
2011.11.13
ウィングのK沢さんは、教育学部の四年生だったが「ヨタハチ」に乗っていた。シートを目一杯後ろに倒して乗っていたので「それじゃ、手がクロス出来ないんじゃないですか?」と訊いたら「ステアリングの下側でクロスするんだよ」と真顔で面白い事を言っていた。
2011.11.12
キャプテンのT所さんはセンターをやっていたが教育学部の四年生だった。T所さんは、いつも同級生の彼女と一緒に行動していて彼女の居ない私には羨ましかった。
2011.11.11
ハーフのS藤さんは、私と同じ工学部の学科だった。「第一志望だよ~」と言っていたが、真実は謎だ。教育学部のスタンドオフのTさんとは一週間に一度しかコンビ練習が出来なかったのは不便だった。
2011.11.10
スタンドオフのTさんは教育学部の4年生だったが体型的には既に社会人ラグビーの体格だった。猛牛の様な太腿で走ってこられたらとてもタックルする気にはなれなかった。
2011.11.09
ラグビー部の先輩にはスタンドオフのTさんハーフのS藤さんセンターのキャプテンT所さんウィングのK沢さんプロップのY野さんフッカーのF木さんフルバックのK藤さん達が居た。
2011.11.08
私と一緒にセンターをやった教育学部のT沢君は松井田の出身だった。教育学部の新入部員は一人だけだったと記憶しているが如何にも末は教育者と言う感じだった。T沢君もラグビーは未経験者だった。
2011.11.07
同じくロックのI関君も機械科だったが体力を努力で補っている様な寡黙な男だった。
2011.11.06
ロックのI崎君は機械科だったが私と同じくらいクルマ好きだった。暫くするとラグビー部は辞めて自動車部へ入部した。
2011.11.05
フォワードのE原君は東京の高校出身だったが数少ない高校ラグビー経験者だった。夏合宿の二日目くらいに持病の「喘息」で練習を見学していた。その頃は「持病」が羨ましかった。
2011.11.04
フォワードのI田君はY塚君と同じ栃木県の高校出身だったと記憶しているが、高校の時は知り合いでは無かったのか同じ機械科の割には、あまり一緒には行動していなかった。やはりラグビーは、未経験者だった。
2011.11.03
私と一緒にセンターをやった機械科のY君は栃木県の出身だった。私よりも背が高かったと記憶しているがラグビーは、未経験者だった。
2011.11.02
同期で記憶にあるのは、工学部ではバックスにY塚君、フォワードにI田君、E原君、I崎君、I関君。教育学部にセンターのT沢君達が居た。
2011.11.01
ラグビー部の新入部員には経験者は少なく大学から始める部員が多かった。特に教育学部では何かしらの部活動をする事が義務付けられていた様で未経験者が多かった。
2011.10.31