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徒然萬成

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2010.05.08
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カテゴリ:国内旅行
3月30日-4月1日に飛鳥について書いていますが、飛鳥は聖徳太子の時代に都のあったところですね。

聖徳太子ゆかりの地と言えば、大阪の四天王寺もあげられます。


四天王寺1
 四天王寺 極楽門



聖徳太子が、「日いずる処の天子、日没するところの天子に申す・・・」と隋の煬帝に使節を送ったことは有名ですね。

朝貢ではなく、対等な関係として使節と手紙を送っています。

大国中国では、中国皇帝にしか「天子」を称することは許していなかったわけですから、相当な怒りをかったことでしょう。

しかし、当時の東アジア情勢もあり、煬帝は使者を日本に送ります。


その使者が難波の港で見たものは、多数の飾り付けられた歓迎の軍船と、陸に立つ四天王寺だったと言われています。

そして、四天王寺には病院療養所や薬局の機能なども持ち合わせていると聞き驚いたようです。

軍備と民への施策がなされていることに、相当な国であると使者は直感したようです。


四天王寺2
   奥左:金堂   正面:西重門   奥右:五重塔



当時は、海から、この五重塔が見えたのでしょうか。

現在の四天王寺は戦災ののち、再建されたもののようですので、なかのつくりはコンクリートがうってあったりして、少し趣にはかけるようです。



今では仏教のお寺が建っていても当たり前ですが、当時は、仏教をとるか、古来の神道をとるかで、蘇我氏と物部氏の争いが起こっていますね。

聖徳太子は、当時の新興宗教であり先進宗教である仏教の推進派でした。

争いは仏教推進派である蘇我氏側が勝ち、日本に仏教が正式に取り入れられることになりました。

仏教を取り入れたことによって、日本の文化・文明はその後進んだとみてよいでしょう。


四天王寺は、仏教が取り入れられた後、まもなく創建されたお寺の一つと言うことになります。

なぜ、この地に聖徳太子は創建したのか。聖徳太子の眼力はやはりすごいと思います。
大国隋との関係も見据えていたのでしょう。



四天王寺3
 庭園風景




聖徳太子は、大きな改革者でもあります。

日本古来の神道には、儀式はあっても教えがないと言われていましたが、仏教によって教えが入りました。(現代の仏教は儀式化している面がかなりありますが。。)

聖徳太子は、仏教の講義も相当行っていたようです。

憲法をつくりましたし、身分にとらわれない登用制度もつくっています。

聖徳太子が、現代にいたる日本の屋台骨をつくったと言われる所以です。


奈良仏教のころには、仏教文化は最盛期を迎えているようです。

このころには諸外国からも多くの人が来ていたようです。



四天王寺4

マンションが、庭園の借景になっているのはご愛嬌でしょうか。

逆に言うと、このマンションの方々は、とてもいい景色を眺められるということですね。



聖徳太子のような改革者が、今の日本にも求められているようです。


なんでも国が面倒みてくれる、というのは一見優しいのですが、結局、人頼みの人を多く増やすことになり、一人ひとりのポテンシャルを落としてしまいます。

そして、国力も落ちていくことでしょう。国力が落ちれば、結局、国が面倒をみることはできなくなっていくのです。



人々のやる気を引き出す改革者。

人々の創意工夫が報われるような世の中にする改革者。

人々が困っていることがあれば、本当の意味で手を貸してくれる改革者。


そういう改革者・政治家が求められています。







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最終更新日  2010.05.08 09:29:04
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