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ある討論番組を見ていたら、どなたかが、
『人間と人類との間には、とてつもない中間項(?)があり、一足飛びに行ってもムリがある(?)』『だからその中間の一つ、国というものを持ってくる必要がある』 というようなご意見を述べられていた。 公共心を養うには今の教育基本法ではどうしてダメか、という理由がこれだそうです。 少し変だと思ったことを書きたくなりました。 一人の人間と人類との間にある距離感ですが、 「実はなんにもないのではないか?」 と思えるのです。人類の一員としてどう生きるか?と考えることは可能ですし、 ”そのように考えてこそ”、 何ものにもとらわれない、自由な発想で生き方を考えることができるのではないか?と思えます。 かたや、国を間に持ってくると、途端に、人と人類との間にあった透明感は消えて、オブラートにくるまったような、何か幕を張られたような感じがします。(人と人とを国という枠で囲いあるいははじき出し、)その幕の間からしか、世界を見ることができなくなってしまうように思えてなりません。 宇宙に一つしかない地球に生きているのですから、公共とは地球全体のことでなければならないのでは、と思います。国を間に持ってきたのでは、公共の名が泣く、というものです。(国を間にもってくると国の利益が第一になってしまうおそれがあります) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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