清水門は、昔行って、その時は、草が茂り、なんとなく薄暗く、東京の皇居でこんな場所があるのか、すごいと感動しました。とにかく、ここが一番昔を偲ぶことができると思い好きな場所でした。
今回久しぶりに行って見て、とてもキレイになっていました。
草もありません。掃除もゆきとどいて、明るいです。
ま、そうでしょうね。それが当たり前なのでしょうが、昔の暗さが懐かしいです。
池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」の中では「清水門外の役宅」が長谷川平蔵率いる火付盗賊改メの本拠地として描かれています。
この清水門の前にあたるのですが、これは、創作のようですが、「江戸古地図散歩」(平凡社コロナ・ブックス)に、この清水門から九段坂をのぞむ風景を次のように書いています。
「左側の蒼い水をたたえた濠と石垣と城門がかもし出す雰囲気は,初夏の夕闇が濃くなりかかるころ,このあたりを歩いていて,おもわず立ちどまり,ためいきがもれるほどに美しい。私の(鬼平犯科帳)の主人公で火付盗賊改方長官・長谷川平蔵の役宅を,この清水門外に設定したのも,このあたりの江戸城・内濠の景観が好きだったせいかも知れぬ。」
「江戸切絵図散歩」(新潮社文庫)には次のようにあります。
「私は(鬼平犯科帳)を書くとき,京都から江戸へ帰任した長谷川平蔵が,一時,目白台に屋敷をもらっていたので,どうも,小説の上から,これを役宅にしてしまうと不便なような気がして,清水御門外に(御用屋敷)と切絵図にあるのを利用させてもらい,ここへ役宅を置き,目白台の屋敷には,長男辰蔵を留守番にさせることにしたのだった。」
古地図を見ると,たしかに清水御門のほぼ正面に「御用屋敷」という文字が見えます。
史実ではないにしても、昔を偲ばせます。
清水門は、寛永元年(1624)助役大名,浅野長晟により建てられた枡形の城門です。
門名については,昔この辺りに清水が湧き出ていた、また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、その名をとって清水門と称したともいわれています。
宝暦9年(1759)九代将軍家重の第二子・重好をして,この門内に一家を創立させて門名にちなんで清水家と称しました。
文久3年(1863)の本丸炎上の時には、将軍家茂と夫人和子(静寛院宮)は一時ここに移っていましたが、この火事で篤姫もここに逃れていて、宮尾登美子の小説『天璋院篤姫』では、この清水邸で、篤姫と和宮とは、はじめて気持ちが通じ合います。