残間里江子著『引退モードの再生学』(新潮文庫)を読むと、お前は何をしたいと思っているのだと、突きつけられる思いがします。
「蕎麦打ち」のことは書きました。
「陶芸」というのは、かっこうよさがあります。
素人でも「味」が出て、「陶芸やっているのですか、スゴイですね」、と私も言われてみたいと思ったことがあります。
しかし、あこがれのようなもので、結局、手が出ませんでしたが。
考えてみると、私には、趣味に生きるというほどの趣味がないです。
あれこれ手を出していますが、すべて中途半端です。
いままで我慢していたことを、さぁ、やってみようと言われても、何がしたかったのだ、なんだか不明です。
あれもしたいこれもしたいと、思っていたではないか、という気持ちもあるはずなのですが。
本の中に、リタイア後、ボランティア活動をしたいかどうかというアンケートに団塊世代は「あまりやりたくない」と答えている、と出ています。
あくまで定年後にしたくないということで、「ボランティア活動」をあげた人が22.5%もあるそうです。
私も、退職前のアンケートだと、したくない、と答えたかまおしれません。
でも、今やっていることの多くはボランティア活動です。
1年近くやって、ゆっくり考えると、労働力の無償提供的な面があって、どこかしっくりないものを感じます。下手をすると、自主性も束縛されて、「仕事」になっているのが、本当に自分がしたいことなのか、と考えます。
NPOを組織して活動すれば、自主性は生まれると思います。
確かにお役所の対応もNPOには良いですね。いくらか仲間的な意識もあるようです。
お互い利用できます。
もっと、本当に楽しいことをしたいと思います。
楽しいことは、確かに自分にこもることではないです。
残間里江子さんは、他のところで、「『それでいいのか 蕎麦打ち男』(新潮社刊)という本を出版しました。タイトルだけ読むと、一見、蕎麦(そば)打ちを否定しているように思われてしまいますが、そうではありません。せっかく蕎麦打ちを覚えたのなら、趣味で終わらせず、世の中のために生かしてほしいと思っているのです。」
「あとがき」には次の言葉があります。
「自分自身に向って最後のムチを打つべき時がきていることを知ってほしい。安穏な日々を送るのはまだ早い。変化を恐れず、自ら荒野をめざして、過激に生きよう。今なら間に合う。きっとできる。『もう既に引退モードなのだから』などと諦めずに、持てる力を出し切ってほしい。そう書きながら、私自身にも言い聞かせている」
あきらめてはいませんが、社会とどうやったらつながるか、自分だけに閉じこもらないですむか、そういうことを考えます。
なんとか「文化」にならないか、といった言葉もありましたが、「文化」になる動きができると良いです。そして、それには、仲間づくりが大事でしょう。
ということは、今やっている「ボランティア活動」の中で、仲間を見つけることから始まるのですかね。