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2010.01.14
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広重 浮世絵 品川宿

 品川宿は、江戸からでる街道のうち最も重要視された東海道の1番目の宿場です。次宿は川崎宿。
 品川宿は当初、目黒川を挟んで、北品川宿・南品川宿の2宿だったのですが、享保7年(1722)歩行(かち)新宿が宿場として認められ、以降3宿で構成されました。
 今でも道中に「新宿」という文字が見られるのは、この「歩行新宿」です。
 宿場の中心は問屋場(といやば)と本陣と脇本陣です。
 その、本陣は北品川宿にあり、脇本陣は南品川宿と歩行新宿に各1、旅籠屋は計93軒、他に人馬継問屋場1(南品川宿)、荷物貫目改所1(南品川宿)、宿高札場1(北品川宿)などがありました。
 本陣は品川3宿(新、北、南)のほぼ中央にあり、参勤交代の諸大名や公家、問跡などの宿泊、休憩所として利用されていました。
 本陣跡は公園として残っています。明治元年、明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)となったことを記念して聖跡公園の名前がついています。
 入口には大きな柱が立っていて「品川区立 聖蹟公園」と書かれていて、袂には松の木や「八番 品川宿本陣跡」の石碑や解説板がありますが、ちょうど前の道が工事をしていて、そこから入れませんでした。
 この旧東海道は、今でも、江戸時代と同じ道幅だそうで、宿場まちの様子を想像させます。
 品川宿内の家々は1600軒、住む人7000という活気ある宿場でした。
 また、北の吉原に対して品川は南といわれ遊興の場所としても有名です。
 落語の「品川心中」は有名です。
 <今の品川と違いまして、江戸時代の品川というのは、それはもうたいそう繁盛しておりました。どうしてかと申しますと、京・大坂へ旅に行くものが「これより東海道」と書かれてある棒杭のところまでやってまいります。
「いってこいや、江戸のことは心配すんな」
「あとのこと、頼まぁ。子供がまだ小さいんだ」
「心配すんなって、ちゃんと可愛がってやるよ」
「女房が...」
「ちゃんと可愛がって...」
「おぅ!?」
 などとバカなことを言いながら金を懐に入れて、品川の宿にやってまいりますと両側にずらーっと貸し座敷(女郎屋)が並んでおりましてね、懐が暖かいものですから、ついついフラフラっと行っちまう。>

 江戸時代には、吉原以外に、新宿・板橋・千住・品川といった町宿には、特に飯盛りという名称の女郎屋が、たくさんありました。
 内藤新宿も有名ですが、品川は、東海道への玄関口でもあり、多くの旅人や、大山詣りや、江ノ島見物に出かける人など、往来する人が多いところから繁盛した宿場でした。
 品川宿は目黒川で北と南に別れています。
 そのため旧東海道の目黒川に架かる橋は江戸時代「境橋」と呼ばれていました。現在は「品川橋」と名付けられています。
 そして、そのそばに、荏原神社があります。
 南品川の荏原神社と北品川の品川神社は、南の天王様、北の天王様と呼ばれ、ともに品川宿の鎮守であった 
 写真は、品川橋から「鎮守橋」を撮りました。右に荏原神社があります。

品川宿を南と北に分ける目黒川






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Last updated  2010.01.14 17:18:36
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