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鳥海摩耶

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非常口

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2012.12.01
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カテゴリ:HoI2AAR
アメリカ合衆国1957年以降の歴史

 第3次世界大戦勝利後、アメリカ合衆国の未来は約束された繁栄を謳歌するはずだった。しかし、第3次世界大戦後の各国の混乱が落ち着くとまず輸出が行き詰まり、大陸からの帰還兵が余剰労働力となったこともあって、経済は伸び悩んで雇用過剰が社会問題化した。第3次世界大戦を勝利に導いた国家的英雄ドワイト・D・アイゼンハワーは任期終了まで高い人気を誇ったが、共和党の支持率は低下、アイゼンハワーは次期大統領候補のニクソンをサポートしなかったこともあって1960年の大統領選では民主党のジョン・F・ケネディが勝利する。

 ジョン・F・ケネディは雇用創出のため財政出動を実施し、アメリカ合衆国経済の立て直しを図るとともにロバート・S・マクナマラ国防長官指導の下肥大化した軍の再編に着手した。ビジネス・スクール卒でフォード・モーターの社長を務めていたマクナマラは、情報収集機関の権限と人員を強化する一方、実働戦力の削減を進めた。

 アメリカ軍は実働兵力の削減を質的な改善で補おうとした。また、核兵器の実戦配備とドイツ第三帝国から接収した技術の流入もアメリカ軍に大きな影響を与えた。その筆頭が各種ミサイルの実用化である。特に対艦ミサイルと対空ミサイルの技術は第3次世界大戦で大きく発展したが、大戦には米独ともに間に合わなかった。X-10などの誘導爆弾を接収、徹底的に研究したアメリカ軍は、数年後に史上初の対艦ミサイルであるハープーンを配備した。

 航空機の主力発動機がジェット化を始めていた頃、アメリカ軍は「バンブルビー計画」と呼ばれる艦対空ミサイル(SAM)開発計画をスタートし、第3次世界大戦直後に大型長射程のRIM-8タロス、中型中射程のRIM-2テリア、小型短射程のRIM-24ターターの3Tと俗称される3種のSAMを実用化した。3Tの開発とその後のSAM開発には接収されたドイツ第三帝国の研究成果も多分に関わっており、ベストセラーSAMであるRIM-66スタンダードの開発が促進されることになる。

 核兵器の実戦配備は既存の安全保障戦略を一変させた。国連安保理に正当性を認められない限り、みだりに軍事行動を取った場合には容赦なく核の審判が下される「恐怖による強制的な均衡状態」は非核保有国や非連合国の大きな反発を招いたが、世界の安定には著しい貢献を果たしたとも言える。ニュークリア・シェアリングとNPT体制に基づき、核兵器を提供できる国家はアメリカ合衆国に限られ、世界中を射程に収める戦略爆撃機、大陸間弾道弾(ICBM)、潜水艦発射弾道弾(SLBM)の配備でパックス・アメリカーナと核の傘はより強固なものになった。

 戦略核兵器、戦術核兵器はアメリカ国内で独自の進化を遂げ、様々な成果をもたらした。アメリカ海軍では核兵器の運用技術とともに、艦船の原子力化が進められた。マクナマラの強烈な軍縮圧力に晒されたアメリカ海軍は、艦船の数を減らすと同時に個艦能力の向上と運用コストの圧縮が求められ、特に戦艦については対艦ミサイルの登場と戦略原潜の実用化に伴って戦略的価値が著しく毀損したため削減対象となった。第2次世界大戦以降の主力戦艦であるノースカロライナ級戦艦、その改良型であるモンタナ級戦艦は次々にモスボール状態にされ、前線から消えて行った。

 原子力化については、潜水艦、空母、巡洋艦の順に計画、建造され、それぞれ「ノーチラス」「エンタープライズ」「ロングビーチ」となって結実する。

 原子力潜水艦はノーチラス級、グレイバック級、スケート級、スキップジャック級と建造を進めるごとに急発達した。そして、原子力潜水艦にはSLBMの運用能力も付加され、長期間の潜航が可能な能力と合致し、核戦力の一翼を担う重要な戦力となった。

 空母については、第3次世界大戦後半に見せた戦訓から空母打撃群による陸への「力の投射」戦略が提唱され、積極的に陸上の目標を攻撃する戦略転換を行った。アメリカ海軍が保有する空母は2012年現在10隻で、その全てが原子力を動力としている。マクナマラ体制下では20隻余り保有していたエセックス級が続々と退役させられ、友好国に売却されたり、スクラップとして解体されたりした。空母が原子力化、大型化したことで建造費や開発費は跳ね上がったものの、多様な任務をこなすことが可能になった。

 巡洋艦の原子力化は「ロングビーチ」の運用で明らかになった使い勝手の悪さと建造費の高騰により一時計画が中止された。だが、新世代艦隊防空システム開発計画(後のイージスシステム)の進展とともに原子力巡洋艦の建造が再検討され、CGN-42計画がスタートした。CGN-42「アラスカ」は世界初の実用イージスシステム搭載艦として同型艦4隻が建造されたが、運用コストの高騰で2000年までに相次いで退役している。

 アメリカ軍が続々と圧縮されて行く中で、軍縮は世界における潮流となっていた。第3次世界大戦とアメリカ合衆国の核兵器保有宣言は国家総力戦をほぼあり得ない存在にまで貶めたため、もはや巨大な軍隊は持つ必要がないという世論に押され、大国が相次いで軍縮に乗り出していたのである。

 だが、国連安保理に承認されて編成される多国籍軍が、今なお世界最強の戦力を持つことが改めて示される事案が発生した。1961年、スペインでは対ソ宣戦以来アメリカ合衆国に冷遇されてきた挙句、アメリカの意見に引き摺られがちな独裁者フランコに対する反感が高まり、バレンシアにてスペイン陸軍第3軍が反乱を宣言し、第2次スペイン内戦が勃発した。

 フランコ政権は直ちに国連安保理に訴えを起こし、非常任理事国の立場から各国にも同政権支持の働きかけを実施した。が、国連安保理ではフランコ政権の自業自得との声が根強く、フランコの交渉は長期戦に入った。スペインでは第3軍の他にも反乱軍に呼応する部隊も出てきて泥沼化し、第2次スペイン内戦も長期戦に至るかに思われた。しかし、1962年になってフランコが内戦終結後に段階的な民主化と総選挙の実施を受け入れる旨の声明を出し、まずアメリカが方針を変え、国連安保理全体の方針も変わり、スペイン内戦介入がすばやく決定された。

 一度決定されると行動に移されるのは早かった。決議後2週間で多国籍軍の第1陣がラコルニャに上陸を果たし、攻勢を始めた。多国籍軍故に部隊間の連携に劣ったが、反乱軍はわずか1ヶ月で鎮圧され、反乱軍の首謀者たちは銃殺されるか地下に潜り、スペイン内戦は収束した。スペインでは総選挙が実施され、フェリペ・ゴンザレス率いるスペイン社会労働党が勝利し、民主政治を取り戻した。

 この後、条件次第で内戦にも介入することが証明された国連安保理の動きは世界に広がる反米、反国連主義者たちには大きな影響を与えた。ただ、国連安保理が動くのは反民主主義的な軍事行動か反NPT的行動が絶対条件となっており、実際に反国連的な行動を実行に移した国家は少ない。

 アメリカ合衆国では1968年まで民主党政権が続き、1969年からはアイゼンハワー政権下で副大統領を務めたリチャード・M・ニクソンが大統領に就任した。ニクソンは当時先進国を悩ませていた環境問題の解決に率先して取り組み、国民の支持を得て政務をこなしていた。

 そして、ニクソンは1つの決断を行う。1960年代後半の財政出動の結果、アメリカ合衆国の景気は過熱状態にあった。その中で、各国が採用していた固定相場制が問題視された。固定相場制は2つの大戦でアメリカ合衆国が唯一の超大国となり、数多くの国家がアメリカ合衆国の手で独立させられたことからなし崩し的に成立した金融制度であった。更なる景気拡大を睨んだニクソンは金ドル交換停止を発表。2年後には主要各国が変動相場制に移行した。

 ニクソン・ドルショックと呼ばれるこの出来事は、1970年代以降のドルの持続的な下落をもたらし、目的の1つとされた貿易赤字削減にも失敗した。だが、アメリカ合衆国はかつて「世界の工場」と呼ばれた国家だったが、製造業ではコスト対効果に優れた大日本帝国やドイツ連邦共和国にお株を奪われ、この時期には「消費国」へと移行しており、輸出国に転換するのは困難であったし、事実、貿易赤字は今なおもって膨大な値を叩き出している。

 ニクソンはアメリカ国内において強い人気を誇ったが、1972年に民主党全国委オフィスへの不法侵入、盗聴事件(いわゆるウォーターゲート事件)が発生。やがてニクソン本人が関与していることが明らかになり、1974年8月8日、辞意を表明した。第3次世界大戦を経てアメリカ合衆国を唯一の超大国に押し上げた功労者の1人であるニクソンは、アメリカ合衆国建国史上初の任期途中で辞職した大統領として名を刻むことになったのである。

 また、ニクソンの死後になって、彼がアイゼンハワー政権の副大統領を務めていた際に特定国家のクーデターに関わっていたことが元部下によって暴露された。ニクソンは死んだ後も非難に晒されたが、同時にアメリカ合衆国が構築した国際平和体制のためには必要なことであったと評価する声も根強く、ニクソンの評価はアメリカ合衆国でも国際的にも二分されている。

 ニクソン辞任後、アメリカ合衆国はいくつかの紛争処理やバブルを経験。アメリカ合衆国を中心とした安全保障体制であるパックス・アメリカーナは今なお世界各国に平和を提供している。アメリカ合衆国が歴史的にはまだ「若い」国家であることを懸念する声も少なくないが、若い故に開拓精神を忘れず様々な国際問題に関与し、時に強引な手法で解決するやり方は反発を招きつつも1つのカタチを成している。

 だが、アメリカ合衆国を中心とする体制に異を唱える勢力も存在する。特にアメリカ合衆国が問題視しているのは、アフガニスタンで産声を上げたアルカイダに代表されるような国際テロリストである。(この世界における)アルカイダは元々ニクソンが撒いた種の1つで、アフガニスタン国内における急進的な反政府組織の1つだった。アフガニスタンは国連加盟国ではあったが数少ない中立国で、長らく王政が敷かれていたが、パキスタンやペルシャを通じて民主主義の代表者たるアメリカ合衆国が秘かに支援を実施した結果、アフガニスタンでは急進的なアルカイダやそれに協力するタリバンと呼ばれるイスラム主義運動組織が実権を握った。

 当初タリバン政権及びその庇護下に置かれたアルカイダは親米的であったが、イスラム原理主義に基づく厳格な支配により非人道的であるとされ、アメリカ合衆国と最終的には対立、2001年には世界中を震撼させた9・11テロ(アメリカ合衆国同時多発テロ事件)を引き起こす。アメリカ合衆国はすぐさま国連安保理に問題提起し、全会一致で多国籍軍の投入が決定された。タリバン政権やアルカイダなどの非人道的なイスラム原理主義組織の駆逐を掲げ、アフガニスタン紛争が勃発したのは2001年10月7日のことである。同時にアメリカ合衆国や国連は彼らに核兵器が渡ることを最も警戒し、現在に至るまで核兵器開発疑惑のある国々に目を光らせている。

 ただ、アフガニスタンでの戦いは2012年現在も継続中であり、泥沼化している。アフガニスタン紛争で明らかになったのは、低強度紛争(Low Intencity Conflict:LIC)、非対称戦争がこれまで圧倒的な火力、兵力に依存してきた多国籍軍の戦闘スタイルに合致していなかったことである。このため、先進国では各種特殊部隊の増員が決定されたが、それが紛争の行方を決定し得るかどうかも未知数であり、パックス・アメリカーナは思わぬ苦戦を強いられている。

 ただし、繰り返しになるが、パックス・アメリカーナは国家間において今なお有効な安全保障体制であり、その中核を成す世界最大の経済力と軍事力を持つアメリカ合衆国は世界中の国々によくも悪くも影響を与えずにはいられないであろう。


アメリカ戦記 完

HoI2集

アメリカAAR





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最終更新日  2012.12.01 10:20:35
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