カテゴリ:◆ 日本史
■ ハイビジョン特集 奇跡の山 富士山 (1)仲哀天皇、神功皇后が、九州の白木原(新羅原)へ、赴く。 三韓征伐と、多田羅製鉄(タタラセイテツ)。 かくして、ようやく、三韓征伐が行われる事になったと思われますが、仲哀天皇が神功皇后を伴って、自ら、九州へ赴きます。 土地を奪われた弥生人達は、福岡の白木原に集結し、仲哀天皇の三韓征伐の指示を待ちます。 この、福岡の白木原が、新羅の語源となったのではないかと思われます。 その当時は、朝鮮半島に、新羅と言う国は存在しませんでした。 朝鮮半島に存在したのは、三韓だったのです。 つまり、三韓が滅びた後に、新羅と言う国名が作られるのですが、それは、白木と、多田羅の組み合わせから生まれた、造語であると考えられます。 福岡には、多々良と言う地名があり、これは、多々羅、多田羅とも書きますが、日本の古式製鉄で有名です。 これは、砂鉄から、鉄を作る方法を意味しますが、三韓征伐の時、刀を、多々羅製法で造り、それで武装して、攻めて行ったのではないかと思われます。 逆に言うと、多々羅製法とは、三韓征伐によって、脚光を浴び、以後、日本の鉄器文化の推進役となったのではないでしょうか。 そう、今で言えば、軍事産業と言う事になります。 ちなみに、刀剣の鋳造は、おそらく日本が一番、古く、現在の調査では、中国の鉄器と変わらない位の時代の、鉄器が、出土しておりますので、仲哀天皇が、中央から、刀鍛冶を連れて、九州へ赴いたのだと考えられます。 その時、天皇が、熊襲に襲撃され死亡するのですが、その皇后である、神功皇后が応神天皇を身ごもりながら、三韓征伐に行くのです。 ちなみに、日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子が、仲哀天皇です。 日本武尊が、熊襲尊(くまそたける)を討ち取ったので、そう言う因果がによるものだったのでしょう。 これも、倭国大乱の一部であったのかも知れませんね。 (2)日本書紀、古事記の復元時の誤訳。 神功皇后の母、葛城高顙媛(カズラギノ、タカヌカヒメ)は、天之日矛(アメノヒボコ)の7代後の子孫ですが、福岡市の白木原の出身で、新羅からの渡来人では無かった。 日本書紀、古事記と言うのは、当て字の文書でして、しかも、蘇我氏が、滅亡の時、焼失させておりますので、原本が無いまま、復元したものです。 それらの文章の中に、新羅と言う記述がありますが、それは、明らかに、誤訳と思われます。 それらの書物を復元した時代に、朝鮮半島に、新羅が存在したので、シラギと言う発音を、新羅だと思って、その字をあてたのでしょう。 それが、誤解の元になったと思うのですが、新羅では無く、意味的には、白木が本当の地名なのです。 意味的には、と言いましたが、その文書に出てくる時代に、地名をまだ、漢字で表現していなかったのではないかと思われるからです。 古事記、日本書紀は、焼失後に、8世紀に復元したものであり、復元の時に、間違った当て字をして、白木を新羅としたと言うことです。 神功皇后の母は、葛城高顙媛(カズラギノ、タカヌカヒメ)と言いますが、天之日矛(アメノヒボコ)の7代後の子孫と言われております。 天之日矛は、新羅王と言われておりますが、これは白木の間違いであり、日本書紀を復元したときに、朝鮮半島に新羅と言う国があった為に、新羅出身だと誤訳をした訳です。 つまり、焼失した古文書は、稗田阿礼(ひえだの あれ)の記憶に基づいて、復元したのですが、記憶の誤訳をした為に、そうなったと考えられます。 そもそも、天之日矛の時代は、紀元前の可能性が高く、その時代、朝鮮半島には、新羅などと言う国も有りませんし、地名もありませんでした。 また、新羅は、弥生人の国でして、漢の時代に、中国から流れてきた、韓族や、現代の韓国人とは、かなり違う人種だったと思われます。 反日、親日、そんなものは関係ありません、これが、真実だと思います。 天之日矛は、福岡市の白木原の出身であり、新羅から渡来したのではありません。 新羅は、三韓征伐の後に成立した国なので、矛盾するからです。 葛城高顙媛は、高千穂に天孫降臨したニニギ命に従って来た人々の末裔と考えられます。 白木原は、大宰府の近くで、昔から、九州の防備と関係していた地域だったのです。 ここに、白木国? があったと考えられます。 九州では、神武東征後に、権力の空白ができますが、その後、九州を統治する場所がこの地に移ったのでしょう。 (3)スサノオ命と、息子の五十猛の伝説。 スサノオは、福岡の白木原に降臨した。 また、スサノオ命が息子の五十猛神(イソタケルのカミ)と降臨して、植林の技術を学んだのは、この地域、以外には考えられません。 しかも、それは、縄文時代の事ですが、福岡市には、五十川と言う地名も残っております。 スサノオ命の時代に、三韓とか、新羅などの地名はありませんでしたし、神武東征以前の話になります。 この他、福岡県には、スサノオ命と関係する、宗像三神の遺跡もあります。 国宝が1万点とか、そう言うレベルの遺跡がある位ですから、この福岡市が、東洋の文化的な中心であったと考えられる訳です。 このスサノオ命の話は、朝鮮半島に新羅(シラギ)ができる、数千年も前の話となります。 さて、スサオは、この地に居たくないので、土で作った船に乗り、伊豆へ行きます。 出雲では無く、伊豆です。 ちなみに、出雲は、神武東征後の、オオクニヌシ系の拠点となります。 しかも、天孫降臨後に、朝鮮島に渡った、オオクニヌシ系の東夷(百済、つまり百歳、仙人と言う意味。富士の仙人の一派ですね。東北のエビスと同じ民族と思われる。)の帰国者が多くいたのではないかと思われます。 スサノオの時代は、それより、遥かに昔ですが、土器を作る技術で、船を作らせ、海に出たのではないかと思われます。 ■ 伊福部昭 交響組曲「わんぱく王子の大蛇退治」Akira Ifukube - "Little Prince" Suite #1; Prelude/Ascension of Izanami 昔は、小学生でも、このレベルの作品をみていたのです。 この名曲を聴いてみて下さい。 (4)一般に、偽書とされる、韓国・朝鮮の「檀君古記」に、素尸毛犁(そしもり)の記述があり、これが、スサノオ命らしい。 ところが、・・・。 この、「檀君古記」の記述には、スサノオらしき記述があるらしいのですが、それが、何と日本の地名ばかりが出て来ます。 ウィキペディアから、その一部を、お借りしてきましたが、次の様なものです。 ( 戊)申十年豆只州濊邑叛命余守己 斬其酋素尸毛犁自是稱其地曰素尸毛犁今轉音爲牛首國也 其後孫有陜野奴者逃於海上據三島僭稱天王 この翻訳が、以下の様になります。 「戊申十年(161年)豆只(ずし)州の濊邑(わいゆう)で謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬った。これよりその地を素尸毛犁と称す。今転音し牛首國という。その孫に陝野奴がおり、海上へ逃げ三島で、天王を潜称す」 ウィキペディアの蘇志摩利より、抜粋。 これを見ると、豆只(逗子)、三島など、日本の地名が出て来るのです。 これは、古代、朝鮮半島が、日本文化圏にあった時の神話の名残であり、私の「富士文明文字発生論」や、「宮下文書」の徐福の富士文明の記述と、一致する訳です。 中国の万里の長城から外は、東夷と呼ばれ、日本の統治だったと考える人もおります。 私も、似た様な事を考えた事があります。 大国主は、国王の意味なので、ニニギ命に大政奉還した以上は、その称号は使えません。 そこで、大国主の一派は、息子の「夷」(エビス)の名前をとって、そう呼ばれたのではないか、と言う事です。 この「夷」が、富士文明が崩壊した時、東北ばかりか、アジア大陸へ渡り、中国から「東夷」と呼ばれ、その地を開拓したと言うものです。 もっとも、中国そのものも、伏儀が日本から行って、遺伝子操作で、他の生物から、人類を増やして行ったと考えられます。 ゲルマン民族も、大移動前は、中国の付近におりましたので、その可能性があるのです。 (宇宙考古学では、実際に、そう言う学説がありますし・・・、それ故、中国人は、本能的に、人食いとかやるんですね。 三国志や、孔子の弟子に関しても、実際に、その手の記述があるのです。) 伏儀については、日本に来た徐福が、そう書いているのです。 また、実際に、「八卦は、遺伝子の塩基配列」と言う説があります。 中国では、化学で、官能基と言う用語まで有ります。 官能と言えば、エロチックな名前ですけど、塩基配列が人間と関係ある事が、何となく、分っている様な感じですね。 伏儀は、八卦の元祖ですが、「八」は、富士を象った文字ですので、富士で生まれた遺伝子の設計図ではないでしょうか。 ---次回に続く---。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[◆ 日本史] カテゴリの最新記事
|
|