カテゴリ:■ ご先祖様の、日本史探訪。
■ 浅草寺にビデオで初詣をして下さい。 「ミュージックの、CD、DVD名曲」で、「浅草神社」で、行われた、「東京大衆歌謡楽団」の、コンサートを紹介した時、私の祖父が、浅草を復興し、浅草の顔役であった事を、述べたが、 その時代、浅草芸人たちの、スポンサーにも、なっていたのだろう。 ところが、それより、もっと、昔に、やはり、私の先祖が、浅草を、復興していたのである。 それは、平安時代の、「平公雅(たいら・の・きみまさ)」である。 彼は、「平将門の乱」で、荒廃した「浅草寺」に、七堂伽藍を、整備した。 それは、単なる、整備では無く、雷門、仁王門(現・宝蔵門)を、増設し、その規模を、拡大して、現在の、浅草寺の、基本的な形を、築いたのである。 今日は、その事について、述べて行こう。 ■ 【浅草はなぜ衰退したのか】かつて東京の一大繫華街だった浅草は、なぜ栄えそして衰退していったのか。知られざる浅草の歴史をゆっくり解説 (1)浅草寺の歴史 「浅草寺」は、東京で、一番古い寺である。 その、創建と、発展の、言われは、次の様なものである。 628年、飛鳥時代の、推古天皇の御代に、墨田川で、「檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)」兄弟が、漁をしていた所、仏像が網にかかった。 それが、浅草寺の、本尊となる、「聖観音(しょうかんのん)像」、だったのである。 その後、檜前兄弟の、主人である、「土師中知(はじのなかとも)」が、出家し、自宅を、寺としたのが、「浅草寺」の始まりとなる。 さらに、大化元年(645年)、「勝海」という僧が、寺を整備し観音を、秘仏とした。 9世紀になると、延暦寺の僧・「円仁(慈覚大師)」が来寺して、「お前立ち」(秘仏の、代わりに、人々が拝むための像)の為の、観音像を造った。 この為、「勝海」が開基、「円仁」が、中興開山となっている。 その後、939年(天慶2年)に、「平将門の乱」が、起きると、この地は、荒廃してしまったが、 乱が、「藤原秀郷」らによって、鎮圧されると、安房守から、新たに、武蔵守に、就任した「平公雅(たいら の きんまさ)」が、それを、再建し、七堂伽藍を整備したのである。 雷門、仁王門(現・宝蔵門)などは、この時の創建である。 ( Wikipedia による。) また、この、藤原秀郷、平公雅は、私の先祖である。 (2)「平公雅」の事を、調べた。 国会図書館の、上野支部。 「将門記」、幸田露伴の、「水滸伝」。 「平公雅(たいらきみまさ)」に、ついて、もう少し、詳しく述べると、「平公雅」は、「平将門」の従弟(いとこ)である。 また、「妹」が、将門に、嫁いでいるので、将門とは、義兄弟(ぎきょうだい)であるとも言える。 その、「平将門」に嫁いだ、公雅の「妹」が、公雅の父、「平良兼」に、連れ去られた所、それを、助け出し、将門の元へ帰した、と言う出来事があった。 詳しくは、将門の小説や、「将門記」を、読んでもらいたい。 私は、海音寺潮五郎の、「平将門」を読んだが、非常に、感動的なものであった。 また、国会図書館の、上野支部で、「平将記」の原文を、見た事があるが、原文と言っても、本当の、古文書ではなく、近代の漢字で書かれ、製本されたものである。 分厚くて、豪華なものであった。 この本を、見ていると、漢字の、魔力と言おうか、大きく、太い文字で、書かれていたせいか、漢字が、自分の目を、くぎ付けにして、離さない様な、 そして、それらの、漢字群に、引き寄せられ、その世界に、引き釣り込まれる様な、そんな、すごい、力を、感じたのである。 将門が、「おい! お前! オレの生涯を、知ってくれ~。」と、言っているかの様であった。 これが、将門の呪いとは、思わないが、すごい、と思った。 この様な、芸術性に、ずっと、接していたら、きっと、漢字の、虜になっていたに違いない。 ■ 平将門と、藤原純友。 国会図書館の、上野支部は、古い建物である。 この、図書館は、外見からは、そうは、見えないが、ニコライ堂の様に、ドーム型? になっていて、 鳩が鳴くと、管内全体に、その、ク、クウ、と言う鳴き声が、拡張されて、聞こえる様になっていた。 その建物の、洋式からすると、 もしかしたら、昔、全世界に、存在した、と言われている、テスラタワーを有する、フリーエネルギーの、発電所だったのかも知れない。 ■ 今から、200年程前に、核戦争があり、高度文明が、滅びた。 館内には、この他、「幸田露伴」の、全集が有った。 本屋には、薄っぺらい「五重塔」位しか、置いて無いが、ここには、膨大な、文章が、保管されていたのである。 その中には、「水滸伝」を、解説したものが、あった。 私は、「吉川英治」の遺作である「水滸伝」を、読んだ事があるが、おそらく、吉川英治も、幸田露伴の研究を、参考にしたのではないか、と思った。 (3)「浅草のり」と、「平公雅」。 「浅草のり」は、食品の、「のり」の語源。 平公雅は、「浅草のり」とも、関係ある。 天慶8年(945年)の3月18日、公雅の枕元に、観音様が、立ち、 「この、沖合に、生ずる青、赤、黒三通りの、海草を、食すれば、無病開運、来世は、必ず、仏果を、得べし。」 と告げた。 平公雅は、それらの、海草を、集めて、食してみたところ、非常に美味しくて体にも良いことから「観音様の法(のり、教え)だから『浅草のり』だ」と評判になった。 私の、先祖の夢の内容が、「のり」の、語源だったんですね。 ( Wikipedia による。) (4)浅草寺と、浅草神社 ■ 浅草寺(Sensoji Temple)を散策!本堂をはじめ宝蔵門や二天門を巡る。五重塔と薬師堂の美しい姿に感銘 浅草寺は、明治時代の、「神仏分離令」の影響で、明治6年「浅草神社」が、分離した。 「三社祭」は、その、「浅草神社」の祭りである。 また、境内には、先祖の、ヤマトタケルの命が、創建した「三峰神社」もある。 小学校の時、遠足で、秩父の、「三峰神社」へ、行った事があるが、浅草の「三峰神社」は、その末社である。 ■ 浅草寺 ■ 浅草神社 ■ [4K Ultra HD] 浅草三社祭 3日間ダイジェスト Best scene Asakusa sanja festival 2015 (5)「武蔵七党」の一つである、「児玉党」は、「ニギハヤヒ命」(物部氏)の子孫であった。 「児玉党」の、系図を見ると、「平公雅」の娘と、「有道惟広」との婚姻がある。 「有道惟広」は、男系なので、この有道氏から、武蔵七党の、「児玉党」が、生まれた事になる。 その、有道惟広の、先祖に、伊香色雄命(いかがしこお・の・みこと)がいるが、これは、どの様な、血統なのだろうか? 調べて行くと、その先祖は、天孫族である、「饒速日命(にぎはやひ・の・みこと)」に、行き着く。 「ニギハヤヒ命」は、天孫「ニニギ命」の兄であり、物部氏の、祖となっている。 (6)天孫族「ニギハヤヒ命」とは? 【 1、天孫族「ニギハヤヒ命」の、降臨。 】 ネットで、調べて行くと、「ニギハヤヒ」に、ついて、次の様な、記述を、目にしたが、私の見解を、示しておこう。 ・「天磐船」に、乗り込み、物部八十の大船団、を率いて、高天原を出航した。 と、言う事だが、 私は、「八十」を、富士山の、八合目と、十合目と解釈しております。 ・八合目は、富士山の形。 ・九合目は、富士山の火口の縁。 ・十合目は、火口の真上 富士山頂の、雪が積もった部分は、「天の児屋根」と呼ばれた所であり、藤原氏が、神事を行う所でもあった。 その、「天の児屋根」付近に、雲海が生ずると、高天原(たかまがはら)と呼ばれ、 さらに、その雲海に、富士山頂の「天の児屋根」が、島の様に、浮かんでいる様に、見えると、「八十島(やそしま)」と呼ばれた。 これは、私の、説であるが、「八」を、富士山の形である、と解釈すると、色々な、事が、うまく説明できる。 「ニギハヤヒ」に、関する、先の、記述も、この説に、従って解釈すると、次の様になる。 「ニギハヤヒ」は、富士山頂の、ポータルから、「天磐船(あめ・の・いわふね)」に、乗って、異次元から、降臨して来て、「八十島(やそしま)」を、出向し、雲海に、船出して、河内に、到達した。 つまり、「八十」とは、船が、80隻、の意味ではないのである。 この様な、単純な、解釈は、「古典物理学」の、世界観に、基づくものであり、「素粒子論」の時代の、考え方では無い。 「日本書記」の、神武記には、179万2470年、昔から、来た、と言う、ヒントが、書かれているので、神々の、時代には、今の、科学技術より、高度な、科学技術を、有していた事が、分かる。 また、「ニギハヤヒ」が、天皇になれなかった、と言う説もあるが、 それは、「ニニギ命」が、先に、富士の、御殿場の「葦原の中つ国」を、平定し、その王朝を、受け継いだので、「ニギハヤヒ」の系統は、天皇になる、資格は、無かったのである。 詳しく、言うと、 「ニニギ命」の息子、「山幸彦」は、自分の、息子に、スサノオの、「ウガヤフキアエズ朝」を、継承させる意図を、示す為に、「ウガヤフキアエズ」と、名付けた。 そして、その息子が、「神武」であったので、「神武」には、天皇になる資格が、有ったのである。 【 2、「神武」の、怪物大作戦。「土蜘蛛(つちぐも)」、「八十梟帥(やそたける)」との、戦い。 】 ■ 神楽〜伝説の地を訪ねて〜「土蜘蛛」 「神武」が、東方に、向かい、光の国の、稲作を、伝授し、何事も無く、この国を、まとめようとしていたが、闇の、抵抗勢力、の存在を知った。 それは、八十島(やそしま)の、富士山の、「光の勢力」では無く、「闇の勢力」である。 富士山頂の、八十島(やそしま)や、それに、かかる、高天原(たかまがはら・雲海)は、夜にも、出現する。 それは、「生」ではなく、「死」の、イメージである。 神武が、退治した、「土蜘蛛(つちぐも)」も、闇夜の、雲(くも)を、イメージして、そう呼んだのかも知れない。 また、これは、有尾人として、描かれている場合もあり、レプタリアン(爬虫類人間)である、可能性も、出て来たのである。 さらに、遡って、考えると、富士周辺には、「八岐大蛇(やまたのおろち)」が居て、生贄の、人間を、食べていたが、 スサノオ命に、退治された、と言う神話が、残っている。 その時、手に入れたのが、「天の群雲の剣(草薙の剣)」である。 また、それによって、救われたのは、「大山津見神(おおやまずみ・の・かみ)」の子である「アシナヅチと、テナヅチ」の、娘の、「櫛名田比売(クシナダヒメ)」であり、 スサノオ命は、彼女を、自分の妻にし、現在の、横須賀の近くの、「須賀」と言う地に、住む事になる。 日本、最初の和歌、「八重垣の歌」は、ここで、詠まれたものである。 また、「大山津見神(おおやまずみ・の・かみ)」は、「富士山」の近くに在る、「大山」に住んでいた、と考えられ、「アシナヅチと、テナヅチ」の他に、何人か、娘がいた。 その中で、「木花咲夜姫(このはな・さくやひめ)」と言う娘が、いたが、「ニニギ命」の、妻となる。 さて、話は、飛んだが、「神武」の前に、立ちはだかった、闇の勢力に、「八十梟帥(やそたける)と言う、怪物がいた。 誰が、「梟帥」を、「タケル」と、訳したのかは、知らないが、この文字を、単純に、解釈すると、夜行性の「梟(ふくろう)」を、率いる、闇の勢力、と言う事になるが、土蜘蛛と、近い関係にあった、と思われる。 彼らも、「神武」に、退治されたが、彼らは、先住民などでは無い。 日本列島は、イザナギ、イザナミが、作ったもので、連中には、何の、権利も無いのだ。 彼らは、人間を、食料としていた、怪物であり、他から、侵入して来た、侵略者である。 また、すべての生物は、太陽の、光が無ければ、生きては、行けないし、「天照(アマテラス)」の、意向には、逆らえないのである。 簡単に、言えば、出来そこないの、怪物のくせに、「光の勢力」が、生み出した、地球に、勝手に、住むなよ、と言う事なのである。 【 3、「神武」と、饒速日(にぎはやひ)の部下「長髄彦(ながすねひこ)」の、激突。 】 その、「神武」が、スサノオの時代の様に、統一国家を、目指す事になるが、「ニギハヤヒ」の部下の、「長髄彦(ながすねひこ)」との、戦い、となってしまう。 激戦のすえ、神武の兄である、「五瀬命(いつせのみこと)」が、死亡する。 「ニギハヤヒ命」は、「長髄彦(ながすねひこ)」に、降伏を、促したが、従わず、ついには、滅ぼされる事になる。 一方、「ニギハヤヒ」は、「神武」の部下となる。 そして、この「ニギハヤヒ」から、「物部氏」が、出る事になる。 系図の中の、誰が、最初に、「物部氏」を、名乗ったのかは、不明である。 (7)今日の、ご先祖様。 武蔵七党の、系図に、掲載されている、先祖の方々は、以前、紹介しましたので、省略しますが、次の、記事に、掲載しております。 ■ 百人一首の歌人「菅原道真」。 ご先祖様は、学問の神様でした。 それ故、ここでは、今まで、正体不明であった、「伊香色雄命」の、先祖の方々が、分かりましたので、掲載します。 物部氏は、天孫族であるせいか、天皇と、同じ位、古い氏族です。 私たちは、武士の時代、以前は、藤原氏を、思い浮かべてしまいますが、 物部氏や、蘇我氏も、藤原氏が、支配した時代と、ほぼ、同じ位、長い年数、日本を支配してきました。 この、三つの、氏族の、支配だけで、1500年以上は、あるのではないか、と思います。 【 天皇家と、物部系の、ご先祖様 】 弘元天皇(8代)、開化天皇(9代)、崇神天皇(10代) 饒速日命(にぎはやひ・の・みこと) 宇摩志麻治命(うましまぢ・の・みこと) 彦湯支命(ひこゆき・の・みこと) 出石心大臣命(いずしこころ・の・おおおみ・の・みこと) 大矢口宿禰命(おおやぐち・すくね・の・みこと) 欝色謎命(うつしこめ・の・みこと) 伊香色謎(いかがしこめ・の・みこと) 大綜杵命(おおへそき・の・みこと) 高屋阿波良姫(たかやのあわらひめ) 伊香色雄命、藤原秀郷、平公雅、平良兼、有道惟広、ニニギ命(天孫)、山幸彦、ウガヤフキアエズ、神武天皇(初代)。 赤字は、今回、先祖である事が、判明した方々です。 青字は、すでに、紹介した、先祖の方々です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月11日 05時52分50秒
コメント(0) | コメントを書く
[■ ご先祖様の、日本史探訪。] カテゴリの最新記事
|
|