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先日の鮫歩きの際、浮木寺で、歌人乙因の話しを聞き、少しブログに書きました。今回の公演の後半は、乙因のことが中心になっています。配られたパンフレットからの一部抜粋です。
八戸は、ヤマセという、北東から吹く冷涼な風のために、米の収穫が少なく、また、たびたび飢饉にみまわれました。このため八戸藩の財政は厳しく、商品価値の高い大豆・〆粕・干鰯・魚油等を奨励し、江戸方面との戸の交易に力を入れました。 そのために貿易港としての鮫浦は、新開地と呼ばれるほど優遇されました。封建制度下の厳しい規則罰則で縛るのではなく、交易興隆のために、当時としては珍しく、自由な雰囲気にあふれていたようです。松前・江戸方面からの出船入船で賑わい、旗亭(船乗り相手の船宿・遊女屋)が20軒ほどがありました。 乙因は本名金子半蔵で、1755年江戸に生まれ、1807年名古屋で亡くなりました。初め江戸の美濃屋に奉公に出て、のちに八戸の廿三日町美濃屋支店の総支配(支店長)になっています。 50歳頃に退職し、鮫の旗亭上川端屋、号は佐川屋の遊女里よ(りよ)を身請けし、鮫で居を構えたと思われます。二人の生活は3年余の短い期間でした。 三回忌、十三回忌、三十三回忌、五十回忌等にみられるように、乙因と鮫の人々の交友がしのばれます。そして、そこには、里よの名前が必ず出てくるのは印象的です。 浮木寺本堂に「乙因追善俳諧献額」という2枚の額が飾られています。乙因五十回忌の1856年(安政3年)4月25日に、追善のために八戸、秋田、盛岡、仙台、江戸、尾張などから広く献句を受け、浮木寺に85句を献額したものです。 五十回忌の献額にある、老境の域に達していた里よの詠んだ句です。 ながれ汲む 里のうれしや 菫(すみれ)草 りよ女 何と明るく若々しいことでしょう。乙因と一緒になった頃の楽しい思い出の句でしょうか、それとも50年前に詠んだ句なのでしょうか。 里よ自身、死を目前にしてもなお、乙因の死後50年もの間、あの3年間を心のよりどころとして、生きて来たに違いありません。 家が貧しく、旗亭に売られたであろう里よ。このまま船乗り相手の遊女・飯盛り女として一生を終えるに違いないと確信していたでしょう。そこには夢はもちろん、生きている喜びは全くありません。捨て鉢になっていた女を、男が身請けしました。女の驚きと喜びはいかばかりであったでしょうか。 亡くなる前年、江戸での定例句会の歌が「茶翁連句集」(小林一茶著)に収められています。 蠅打てけふも聞けり山の鐘 一茶 松葉散りうく水のうれしき 乙因 麻畠ちいさき人の見えそめて 成美 薄きいなずまおちつきもせず 浙江 乗りものの戸をなくしたる月の世に 乙因 雁鳴門や餅をつくらむ 一茶 (後略) 乙因の死を知った江戸の俳家たちが、追悼歌仙を開いています。 茶粥する身延の水を袖にかけ 成美 竹一本の秋は来にけり 一茶 牛馬にははづれかかりし宵の月 浙江 露の中から人のよぶらん 成美 咲く花のちるはちるはに年よりて 一茶 ひたひた水に春は暮れゆく 浙江 それにしても、愛する女を残して、敢えて俳諧行脚の旅に踏み切らせたものは何だったのでしょうか。 愛する男が音信不通になり、その男を尋ねて、たった一人で名古屋まで行っています。江戸で成美あたりにでも聞いたのでしょうか。ようやくたどり着いた名古屋で、里よは男の死を知ります。 乙因辞世の句 草の根に隠れて聞かむ閑古鳥 乙因 生死の境をさまよいながら、想いは遠く鮫の空へ馳せていたのではないでしょうか。 この辞世の句に対する里よの句 草の根を起こしてみたし閑古鳥 里よ 俳諧の修行だかなんだか知らないけれど、勝手に旅に出て、そのままポックリあの世なんかに行かれたのでは、残された私の方がたまりません。隠れて一人で閑古鳥(カッコウのこと)なんか聞かないでください。さぁ、墓を掘り起こしてあげますから、出てきて、私と一緒に閑古鳥の声を聞きましょう。 浮木寺には、自然石の面を削った、極めて素朴な所に、乙因辞世の句が掘ってあります。 一緒にいたのがわずか3年なので、情熱が残っているんでしょうね。この文を書いた柾谷さんの入れ込みようもすごいです。 シルバー川柳から 来世でも 一緒になろうねと 犬に言い お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.10.05 09:55:27
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