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uniawabioyoyoの前立腺がん日記

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2022.04.26
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カテゴリ:カテゴリ未分類
野口巌さんか書いた「玉砕の硫黄島に生きた 混成第二旅団野戦病院」という本を、図書館本館から借りてきました。

「はしがき」と目次、経歴です。





多分在庫がないと思い、新規に取り寄せてもらう「リクエスト」をしようとしたところ、在庫としては、ありますが、貸し出し中との事。借りる予約をしました。

地元誌の記事を読んだ方がリクエストしたものと思われます。インターネットで図書館の在庫を調べた段階では、ありませんでした。

その後地元紙の投書欄に、この本を図書館から借りて読んだという投書が載りました。南部町に住むEさんが書いたものです。八戸周辺に住む人たちは、八戸の図書館から借りることが出来ます。

この方が借りていた可能性もありますが、直前に借りた人は、借りたばかりで、私は貸出期間の15日間をほぼ待たなければなりませんでしたので、別の人が読んでいた可能性が高いです。人気があります。

予約をすると、返却に来た人は連続して借りる事ができません。もう1度読みたければ、更に予約しなければなりません。

本の一部を転載してみます。ちゃんとお読みになりたい方は、八戸市図書館で借りるか、少なくもアマゾンでは買うことが出来ますので、よろしくお願いします。

昨日返却に行き、もう一度読んでみようと、予約状況を聞くと、2人が予約していました。その後に再度私の予約を入れてもらいました。

一人最大15日間ですから、長ければ1カ月待つことになります。帰宅後、クリント・イーストウッド監督、渡辺謙さん主演の「硫黄島からの手紙」を見ました。

この映画では、擂鉢山への星条旗を掲げる場面が紹介されていたので、両軍の戦いを描いた映画だと思っていました。

これが勘違いで、ほとんどが日本軍を描写しています。壕の様子もよくわかります。渡辺さんは、現地司令官の栗林中将を演じています。軍内の葛藤も描かれており、野口さんの本の理解に役立ちました。

『昭和9年(1934)3月、千葉医科大学を卒業すると、徴兵検査が待っていました。「甲種合格。早速幹部候補生志願の手続きをするように」と、徴兵官に言われまれ、軍医候補生を志願しました。

以下、最後の第22回までは、野口さんの本を簡略化して紹介したものです。

『衛生部幹部候補生を志願すると、「軍医幹部候補生を志願せよ」と言ってきました。調べてみると、普通の幹部候補生は、二等兵から始まり、1年間、営内に居住し、教育を受けます。

一方、軍医候補生は、はじめの2ヶ月間は軍曹として、次の2ヶ月間は見習い医官として、曹長の階級で営内に居住します。

以降は、軍医中尉(当時は二等軍医)に任官し、営外から通います。満1年間現役として勤務した後、予備役に編入されます。

軍医候補制度は昭和8年から始まり、全国で年に二百数十名が採用されました。それに衛生部幹部候補生からも、何倍もの軍医ができます。

昭和18年6月、2度目の召集先、フィリピンから帰る時は、船の半分は敵潜水艦に沈められるという話しで、野口さんは飛行機で、マニラから、九州の鷹の巣飛行場へ帰ってきました。

日東化学八戸工場は肥料を作っていましたが、空襲を覚悟し、コンクリート製の防空壕を作っていました。硫安という肥料を作っており、重要産業に指定されていました。職員は召集を免除されていました。

野口さんに召集令状が来ると分かっていれば、早く届けておけば、召集されずに済んだはずと、Y総務部長は言いました。 (後に硫酸が入っているタンクがグラマンにより攻撃され、数人が亡くなりました)

会社内に看護師は二人いましたが、怪我人が出た場合のことを考え医師を捜していました。野口さんは東京から地方に疎開したいと考えていたので、1944年9月赴任しました。診療所が開設されました。

昭和19年(1944)11月13日、午前9時、東部第十部隊に出頭せよ」という召集令状が来ました。三度目の召集でした。

野戦病院に行くということでした。先任者が病気で帰国したので、野口さんが代わりに行くのだと説明されました。これも、国会議員だからという理由で戻ってきた兵にどこかを聞くと、

「硫黄島です。とても大変です。軍人以外はほとんど内地に引き揚げました。一部は軍に徴用されましたので、今いるのは軍隊だけです。

毎日要塞作りで忙しく、殺風景で、何もありません。それに良い水が全然なく、食料も充分には貰えず、皆、腹を空かせています。

今年6月、敵がサイパンに上陸した頃から、敵機の空襲が始まり、しばしば、艦砲射撃もあります。本当にひどい処です。」

師団長に挨拶に行くと「軍医が不足しています。ご存知かとは思いますが、戦況は我が軍にとって、非常に憂慮すべき状態に立ち至っております。

硫黄島では、さぞかしご苦労が多いでしょうが、健康に留意して、頑張ってください。御武運の長久を祈ります」

硫黄島に行く飛行機の便を捜しますが、所沢、立川共に、全機が故障していて、飛べないと言われます。連隊に探してもらうことにしました。

昭和20年(1945)1月10日午前5時、木更津の海軍航空隊からの飛行機に乗ることが出来て、硫黄島に向かいました。





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Last updated  2022.04.28 00:33:52
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